5人殺害の少年が「死刑」にならなかった“衝撃の理由”(昭和24年の事件)
〈「趣味は女風呂の覗き見」「注意されて逆ギレ」銭湯を営む家族5人を殺害⋯18歳・少年はなぜ死刑にならなかったのか?(昭和24年の事件)〉から続く
1949年、小田原で一家5人を殺害した18歳の男に死刑判決が下る。しかし、サンフランシスコ講和条約を機にした恩赦により無期懲役へ減刑、のちに仮出所を果たす。だがその結末は、さらなる凶行だった――。鉄人社の文庫新刊『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』よりお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)
【写真】この記事の写真を見る(2枚)
◆◆◆

写真はイメージ ©getty
「死刑反対」の裁判長
一審で死刑判決を下した裁判長の三淵乾太郎(1906−1985)が直々に杉山を訪ね、控訴するよう強く説得したのだ。
三淵曰く、世論、事例など諸般の事情から極刑を言い渡したが、自分は死刑反対の立場だ。個人としてはぜひ控訴審を闘ってほしい──。この言葉に押され杉山は控訴審に臨むも、東京高裁は1951年3月20日に控訴を棄却し一審の死刑判決を支持する判決を下す。
同年9月6日の最高裁判決も上告を退け、死刑が確定。杉山は収監されていた東京拘置所から仙台拘置支所へ身柄を移送される(当時、東京拘置所には死刑執行の設備がなかった)。
死刑囚監房で処刑を待っていた杉山に思いもよらぬ通達が寄せられるのは、それから1年後の1952年9月23日。「和歌山一家8人殺害事件」と同じく、前年1951年9月に締結されたサンフランシスコ講和条約を記念し戦後4回目となる恩赦が実施され、死刑から無期懲役に減刑されたのである。
社会復帰後、またもや罪を⋯
杉山は宮城刑務所に移管され模範囚として過ごし、事件から21年後の1970年3月、38歳で仮出所する。これが大きな過ちだった。
社会復帰した杉山は、刑務所で覚えた印刷の技術を活かして東京都内の印刷会社に就職。表向き、真面目な印刷工として働く。一方、杉山が住んでいた横浜市南区庚台のアパートの部屋は家出少女や不良少女たちの溜まり場になっており、1982年ごろからは、親が離婚し父子家庭だった川崎市中原区の小6少女(当時11歳)と同棲を始める。
杉山は、いわゆるロリコンだった。しかし、1984年7月8日、当時13歳になっていた少女がアパートから彼女の友人である東京都杉並区在住の14歳の女子生徒の家に逃亡。杉山はそこに押しかけ「戻ってきてほしい」と懇願する。
同日16時ごろ、家にいた女子中学生5人に「おじさん帰りなよ」と冷たくあしらわれ、同棲していた女子生徒にも「歳が違いすぎる」「別れたい」などと言われたため激昂。
いったん外に出て金物屋で登山ナイフを購入した後、18時ごろ、公衆電話で13歳少女を「井の頭線の明大前駅にいるから来い」と呼び出す。
少女は恐る恐る申し出に応じて、14歳生徒に付き添ってもらい杉山に会った後、杉並区永福1丁目の明治大学和泉校舎正門前・甲州街道の歩道橋上に移動。この間も杉山は必死に復縁を懇願したが、少女が頑として応じなかったため、2人をナイフで滅多刺しにする。
少女たちの命は⋯
幸い彼女らの命に別状はなく、その証言から警視庁高井戸警察署が9日午前2時40分ごろ、杉山を自宅アパートで殺人未遂容疑で逮捕。
1984年12月19日に東京地裁から懲役8年の実刑判決を受けるとともに、仮釈放も取り消され、宮城刑務所に収監された。杉山は53歳になっていた。
杉山のその後については明確にはわかっていないが、同事件を取材したノンフィクション作家の斎藤充功によれば、2009年(平成21年)2月15日23時10分ごろ、宮城刑務所で首吊り自殺した70歳の男性受刑者が杉山である可能性があるという。
また事件で唯一、生き残った一家の長女はその後、家業の銭湯を継ぐも2012年に閉業。2年後の2014年に斎藤の取材に応じ、次のように語ったそうだ。
「獄死すればいい」
「杉山が恩赦で死刑を免れた後、仮釈放後に再犯したことは知っている。杉山は一度、宮城刑務所にいる際に保護司を通じて『出所したら(被害者たちの)墓参りをしたい』と連絡してきたが、自分は『仇に墓参りをしてほしくない』と断った」
「自殺した男が杉山だとしたら残念だ。自分の家族は虫けらのように殺されたのだから、杉山も一生刑務所に入れられて苦しみ、獄死すればいい」
皮肉にも恩赦によって起きた2度目の犯行。ちなみに、恩赦は昭和天皇崩御(1989年1月7日)の際にも実施されたが、恩恵を受けたのは軽犯罪者のみで、死刑囚などは対象外とされた。
(鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載))
