「もしも、いま彼がここにいてくれたら…」藤井聡太に糸谷哲郎が挑んだ名人戦、わたしは村山聖のことを思わずにはいられなかった
〈「もう語ってもいいかな。村山聖九段のことを」奨励会の同期・勝又清和七段が初めて明かす、29歳で逝った「彼」への想い〉から続く
藤井聡太名人に糸谷哲郎九段が挑んでいる第84期名人戦七番勝負。挑戦者の糸谷は森信雄七段門下。29歳で夭折した故・村山聖九段は兄弟子にあたる。
【画像】山崎隆之九段(45)と磯谷祐維女流初段(23)の貴重なツーショット
勝又清和七段は、村山と同じ1983年に奨励会に入会。森門下として初めて名人挑戦を果たした糸谷の戦いを、特別な思いで見つめていた。(全2回の2回目/前編を読む)

故・村山聖九段 ©︎文藝春秋
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受け継がれていく師弟の絆
藤井猛が山崎に、「お弟子さん(磯谷祐維女流初段)活躍しているじゃないですか」と言い、私も「この間、高槻の将棋会館に行ったら、彼女は朝から若手棋士とVS(練習対局)してましたよ」と言うと、顔をほころばせて「(磯谷の奨励会時代は)厳しく言いすぎたので、ほめるようにしたら今は一所懸命勉強していますね。若手棋士並みに研究会をこなしています。指導はほめないといけないかなあ」。
山崎と磯谷と言えば、2024年の山崎対佐藤天彦の棋聖戦挑戦者決定戦を思い出す。私が観戦記だったのだが、磯谷は連盟で師匠の大一番を見守っていた。感想戦では邪魔にならないように遠くから正座でずっと見ていた。せっかくだからツーショットを取りましょうと強引に並ばせると磯谷は笑顔を見せた。
ところで、藤井猛と山崎には「居玉での攻撃システム構築」という共通点がある。後手の横歩取り8五飛戦法が大流行していた頃、山崎は「新山崎流」を編み出した(2003年)。玉の移動を省くことで相手の陣形が整う前に攻めかかるという、「藤井システム」と似た思想である。
最初はキワモノ扱いされていたが、やがて認められ、流行した。2011年の第69期名人戦第7局では、羽生善治名人の横歩取りに対し森内俊之九段が新山崎流を採用して勝ち、名人奪取を果たした。過去200局以上も指されている。
現代では居玉で戦うことはすっかり市民権を得た。相居飛車において、居玉は味方の飛車にも敵の飛車にも近づかないという利点により、当たり前になった。
藤井聡太は2023年の渡辺明名人と初めての名人戦第1局、相居飛車から、後手ながら居玉のまま先攻し、居玉のまま寄せ合いに持ち込んだ。藤井玉は92手目に王手されるまで一歩も動かず、110手で勝利した。感想戦で渡辺が「(相手の)居玉が遠かった」と嘆いたことをよく覚えている。
まるで漫才師のような山崎と藤井猛
山崎がいるととても楽しい。藤井猛との掛け合いに、皆笑い転げる。「私がわざわざ大阪まで出向いて君に矢倉で勝った将棋、覚えてない?」と藤井が言えば、「自分が指した将棋、1か月経つと忘れますから」という具合だ。
同じ居玉システムを作った2人だというのに、意見は全く合わない。糸谷が陣形に手を入れて、左の銀を動かす局面で、山崎が継ぎ盤の銀を真っ直ぐ上がると、藤井が「ええっ」と驚いて銀を斜めに動かし直し、「当然玉に近づけるでしょう。次に右に玉と寄ってさらに銀を玉に近づけて」。しかし山崎も「それは全体のバランスが悪いでしょ」と一歩も引かない。
やがて山崎の推奨手を糸谷が指すと、山崎は「やっぱり」と言い、藤井は「筋が悪いねえ」。おいおい、55歳と45歳のいい年したオッサンが何を言い合っているの。9年ぶりくらいに会話したとか言っていたが、長年コンビを組んでいる漫才師のようだ。
これじゃ中学生の頃の勇気(佐々木勇気八段)と高見(泰地七段)の会話と変わらないよ。いや、勇気は今も同じか。
山崎を奮起させた村山の言葉
せっかくの機会なので、2人に村山のことも聞いてみた。
「村山さんは生前、『山崎君はA級八段になれる男です』と語っていた、と観戦記者の池崎和記さんが書いていたよね」と聞くと、山崎は「村山さんは雲の上の存在でした。弟弟子には厳しかったですが(笑)」。
『将棋世界』の追悼号では山崎は、
「四段になってからも将棋を見て『山崎君、もうちょっと強かったと思ったけどな』と見たまんまを言ってくれる人でやる気も出るしうれしい気持ちにさせてくれた。歯に衣着せぬ人だったけど根がやさしいから村山先生を嫌いな人なんて聞いた事がない」
とつづっている。
「村山さんに負けなければ、藤井システムは生まれなかった」
藤井猛は「村山さんとは3局しか戦っていないんだけどね」と言いつつ、藤井システム誕生にまつわる話をしてくれた。
「居玉のシステムにチャレンジしようと思ったのは、1995年11月に銀河戦で深浦康市九段の居飛車穴熊に惨敗した後です。照準を定めていたのは、先手番とわかっている順位戦の井上慶太九段戦(1995年12月22日、藤井システム1号局)でした。居玉は後手では無理だと思っていたから採用するつもりはなかったんです。
ただ、その前の12月11日に村山さんと王位戦での対戦がありました。これが初対戦でした。後手になったので四間飛車にして7一玉型に。端歩も左銀の移動も省略して飛車を6筋に回り、穴熊に組まれる前に攻めた。だけど、これだけ駒組を工夫したのに勝てなかった。
やっぱり穴熊相手に7一玉ではダメだ。もう省くところは玉の移動しかない、居玉しかないと、この敗戦が後押しした。王位リーグ入りがかかった一番だったから、もし先手だったら居玉を採用していたかもしれない。
それでも負けていたら(居玉のシステムを)やめていたかもしれない。また逆に村山さんに7一玉型で勝っていたら居玉にチャレンジしようとは思わなかったかもしれない。だから、負けたけれど良かったなと、糧になったと思っています」
すごい話じゃないか。
「終わった後、観戦記者の田辺忠幸さんと村山さんと3人で居酒屋に行って、そこで村山さんに『婚約おめでとうございます』と言われたのは覚えています」
そう続けて藤井は笑った。
「もう書いてもいいんじゃないかな」
『聖の青春』の大崎善生さんも、池崎和記さんも、田辺忠幸さんも、もう鬼籍に入られた。この場にいたら、今回の名人戦をどう描いたことだろう。
私も村山との思い出を話し、「『聖の青春』があったから、今まで書かなかったんです」と言うと、藤井はしばらく考えた後、「もう書いてもいいんじゃないかな」。
だから私はこうして初めて記している。
山崎が最後まで見届けた糸谷の粘り
名人戦はというと、1日目から藤井が優勢だったが、糸谷はずっと粘り続けた。開幕前は、長考派の藤井と早指しの糸谷の対決とあって、どれだけ消費時間に差がつくだろうかと思っていたが、糸谷のほうが時間を使っている。
藤井の指し手は堅実そのもので、なかなか差が縮まらない。それでも控室の予想をことごとく外す糸谷の独特な粘りで、怪しい雰囲気になってくる。
近藤が「いやあ、この粘りは私にはできないなあ」と感心したように呟く。藤井は永瀬拓矢九段とのタイトル戦では指し手に淀みがなかったが、今回は一手指すごとに考えている。2人は読み筋がまったく噛み合わないのだ。2人とも読んでいてしんどいだろうなあ。
午後5時の夕食休憩まで持たないかと言われていたのが、いつの間にか午後8時を回った。山崎は「藤井勝ち。もう帰る」と言いながら、大盤解説会にゲスト出演した以外は、継ぎ盤の前から離れない。
糸谷の粘りが功を奏し、藤井の飛車を捕獲した。色めき立ち、盛り上がる控室。山崎の目が一瞬輝いた。だが、藤井の「歩頭の桂」が発動し、飛車がするりと逃げていく。それとともに、控室の熱も潮が引くように冷めていった。
山崎が「何を熱狂していたのかなあ」とぼやく。糸谷は1分将棋になるまであがくが、藤井の指し手は冷静そのもの。午後9時5分、136手にて名人勝ち。
あれだけ「帰る帰る」と言っていた山崎は、最後まで見届けた。しかし対局室には入らず、関係者に丁寧にあいさつして椿山荘を後にした。
俺も村山とこんな会話をしたかった
感想戦は面白かった。糸谷はよく笑い、藤井も何度も笑顔を見せた。やがて両者深々とお辞儀して感想戦が終了。
糸谷は部屋を退出しながら、佐藤天彦と楽しそうに談笑している。そうだ、二人は関西奨励会同期入会で1988年生まれの同い年だ。いいなあ、俺も村山とこんな会話をしたかったなあ。立場が違いすぎてできなかった。
あんなに早く別れがくるなら立場なんて気にしなければよかった。推理小説の話題に盛り上がった、あのときのように。戻れるなら、昔に戻りたい。いや、いま彼がここにいてくれたら、森信雄門下初めての名人戦をどう評価したのだろうか。
前傾姿勢で苦しそうな表情で戦う糸谷の姿に、村山聖が重なっていたよ。ああ、年を取ると涙もろくなって困るなあ。
糸谷に「山崎さんが来ていましたよ」と言うと、なんとも言えない表情をした後、苦笑いした。
糸谷にとって人生最長の消費時間539分を記録した日。名人戦初の「初手端歩」が刻まれた、記録にも記憶にも残る第1局だった。
(勝又 清和)
