KKコンビを破った取手二高の主将が59歳になったいま語る「桑田を打てた理由」

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プロ野球史上最大のミステリー「KKドラフト」から41年、いま初めて明らかになる物語――。あのとき、球界に渦巻く虚々実々に翻弄されたのは桑田真澄と清原和博だけではなかった。脚光を浴びた2人の周縁で、誰が動き、誰の運命が書き換えられたのか。本当の主役は誰だったのか。

連載『1985 英雄たちのドラフト』

第2回「相部屋」(前編)

木内監督との不仲節の真相

1984年夏の甲子園決勝で相まみえたPL学園と取手二高は、延長までもつれた末に、取手打線がPLのエース・桑田真澄を打ち崩し、深紅の優勝旗を手にした。

死闘から42年、取手二高の主将としてチームを牽引した吉田剛は、59歳を迎えた現在、自らが経営する大阪北新地のバーで、あの夏の記憶を昨日のことのように回想してくれた。

「6月に水戸でPLと招待試合をやったとき、13対0よ。桑田の球も速くて2安打完封。その印象があったんだけど、甲子園の決勝で当たったとき、トップバッターの俺は桑田の初球を見て『これは打てる』って思ったのよ。球がそれほど走ってなかった。ベンチに戻ってすぐナインに言ったもん。『今日の桑田の球、打てるぞ、絶対に打てる。絶対に勝てるから』って」

大阪大会から甲子園の決勝まで、桑田がほとんど一人で投げてきたことを思うと、球威の衰えも仕方がないとは思うが「理由はそれだけではなかった」と吉田は言う。

取手二高は、緒戦でエース・嶋田章弘を擁する箕島を下し、準々決勝の鹿児島商工戦では2試合連続完封の増永祐一を12安打KO。準決勝の鎮西ではその年のドラフト会議で、南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に4位指名される下手投げの松崎秀昭を打ち崩すなど、屈指の好投手を攻略して勝ち上がってきた。

「高校生って不思議なもんで、一試合ごとに成長していくんよね。嶋田も松崎もその年のドラフトに指名されるわけだから、全員がいい投手だった。それに打ち勝ってきたわけやから、俺らの眼も肥えてたってこと。それで、桑田の球を見ても動じなかった部分はあったと思う」

「だから『今日は勝てる。絶対に勝てる。負けるはずがない』って思いながら決勝に臨んでた。それでも、俺らも結構ミスが多くて、土壇場で追いつかれたりしたけど、どこかで試合を楽しんでいたかな。向こうはプレッシャーがあったでしょう。その意識の差もあったと思う。だから、延長に入っても、まったく負ける気はしなかった」

この年の取手二高を語る上で欠かせないのは、監督・木内幸男の存在である。その後、常総学院を率いて“名将”の名をほしいままにするが「木内監督の放任主義が、取手二高ナインの離反を誘発した」という見方も根強い。木内幸男と主将の吉田剛の“不仲”は、当時の高校野球マニアの多くが気にかけていたことではある。

そのことを質すと「ないない、俺はキウチとは今でも『相思相愛だった』って思ってる」と口許を緩めた。

「あの人にとって、最初の理想形は取手二高だったって思う。『吉田は反抗していた』とかマスコミによう書かれたけど、俺はキャプテンだから、部員の不満を伝えていただけ。それに、決勝の翌日に取手二高の監督を辞めたのも、前々から決まっていたからで、本当なら県大会の前に辞める予定だったのに『こいつらと最後に野球やってから辞めたい』って言ってくれて。だから感謝してるんよ」

桑田と相部屋に

「では、名将だったと思うか」と質すと「思う」と即答した。

「間違いない。あの人が監督じゃなかったら、俺らは絶対に優勝してない。断言していい。そもそも、高校野球って8割方、監督だと思う。采配だってそうだし」

そう言いながら、こう付け加えるのも忘れなかった。

「それでも、当時のPL学園みたいなチームは別よ。桑田と清原みたいな逸材が同時におるチームだったら話は別。中村(順司)さんが駄目ということでは全然ないよ。でも、あんなチーム、二度とないと思うな」

夏の甲子園の決勝から僅か4日後の8月25日、日韓親善高校野球大会のメンバーが召集された。

優勝校である取手二高からは、投手の石田文樹、捕手の中島彰一、内野手の吉田剛、佐々木力、外野手の下田和彦と最多となる5名が選ばれ、準優勝校のPL学園からは、投手の桑田真澄、捕手の清水孝悦、内野手の清原和博、外野手の清水哲の4名が選ばれた。監督は退任した木内幸男に代わって、PL学園の中村順司が就いた。

17人のメンバー全員が大阪に集結した8月25日の夜、大阪市西区の中沢記念野球会館で結団式が行われた。団長に選ばれた取手二高の主将・吉田剛は「思いきり暴れてきます」と来賓やマスコミの前で抱負を述べている。

翌朝から枚方市の松下電器球場(現・パナソニック・ベースボールスタジアム)で合同練習が行われるため、選手は早々に会館内の宿泊施設に入った。5日間の合宿生活に入り、30日には大阪ガスのグラウンドで大阪・兵庫社会人連合と壮行試合、31日朝には伊丹空港からソウルに飛び立つというハードスケジュールである。

親善目的の合宿もあって、異なる高校の選手同士の相部屋も珍しくなかった。そこで、取手二高の主将である吉田剛と相部屋になったのは、4日前、甲子園の大舞台で死闘を繰り広げた桑田真澄だった。

【後編を読む】桑田真澄に「二刀流」の選択肢があったら…高校時代に桑田と相部屋になった選手が語る「ケタ違いの野球センス」

【連載の過去回を読む】

●第1回前編【「高校球児はネクラ集団」…タモリが揶揄した高校球界に突如現れた「ネアカ軍団」の快進撃】

第1回後編【「桑田にすまんという気持ち」清原和博が2年夏の甲子園決勝で敗れたあとに明かした「胸の内」】

【つづきを読む】桑田真澄に「二刀流」の選択肢があったなら…高校時代に相部屋になった選手が語る「ケタ違いの野球センス」