#2 夏目漱石への第一歩として読むのにふさわしい作品は──? 阿部公彦さんによる、漱石への再入門【NHK別冊100分de名著】
阿部公彦さんによる作家・夏目漱石への再入門 #2
近代日本を代表する作家・夏目漱石。誰もが知るその作品の数々とともに、妻子を持つ家庭人、こだわりある趣味人、教師、読書家、勉強家、漢詩を書く人、弟子を持つ「先生」、学者、といったように、様々な顔を持っていたことも知られています。
『別冊NHK100分de名著 集中講義 夏目漱石』では、文学研究者・阿部公彦さんが多面的な漱石とその作品についてまわる漱石の心身の「葛藤」に的を絞って読むことで、一度は読んだことのある漱石作品を、2度3度と味わいつくします。
『吾輩は猫である』がもたらした発見
『吾輩は猫である』は、私たちが漱石と出会うための第一歩として読むのにふさわしい作品です。というのも、漱石自身がこの作品の執筆を通して、「小説を書く」という作業と出会ったからです。彼は書く作業と出会うことで、書きながらいろんな発見をし、彼自身が読者に発見されもしました。『我輩は猫である』はたいへんな人気を博し、ここにこんなおもしろい書き手がいる、と世に知らしめたのです。しかも、文章とはこのようにおもしろくありうるのか、と読者に読むことの快楽を教えることになります。内田百輭の『贋作吾輩は猫である』をはじめとして『吾輩も猫である』、『吾輩は馬である』、『吾輩は猿である』、『吾輩は亀である』など数多くのパロディが生み出されてきたのも、漱石の着想の新しさによるところが大きかったと言えるでしょう。
読者は必ずしもこの作品を「文学」とか「小説」といった旗印の下にありがたがったわけではありません。そんなよけいなことを考える前に、猫が人間を観察するという設定や、話の進み方の妙味、話題の珍しさや風刺の毒に引き込まれたのです。それを可能にしたのは、小説という狭いジャンルを越えた文章世界でした。それは実に融通無碍で、古くからある神話的でファンタスティックな想像力の世界と、落語的な語りの饒舌さと、近代社会に根付きつつあった「リアリなもの」への感性などの混交を可能にしました。逸脱や境界越えを許す懐の深さがあったのです。漱石の猫は、この混沌とした領域へと足を踏み入れることで、今までにはなかったおもしろさを開拓するのに成功したと言えます。
『吾輩は猫である』はどのような「事業」だったのか
このように書くと、漱石がまるで新しい分野に参入したベンチャー起業家のように聞こえるかもしれません。結果的には、そういうことになったわけですが、もともと彼は『吾輩は猫である』を明確な「事業」として計画していたわけではありません。この作品は緻密なプランに沿って書かれたものではなく、かなり行き当たりばったりに執筆されています。書き手である漱石自身が、自分がどんな方向に向かっているのかあまりわかっていなかったようです。
この作品がいったいどのように生まれたのか、その経緯を振り返ってみましょう。『吾輩は猫である』は漱石が同人誌「ホトトギス」に寄せた短編が元になっています。これが高浜虚子をはじめとした仲間の間でたいへん評判となり、虚子の勧めもあって漱石は「続篇」を書きます。それを続けていくうちに、最終的に長い小説となったわけです。その後の研究で、執筆のヒントとなったと思われる作家はE・T・A・ホフマン、ローレンス・スターンなどいくつかあげられていますが、どこまで明確に漱石がそれらを意識したかははっきりしません。もちろん作者が意識するにしろしないにしろ、先行作品を読んでいるにせよいないにせよ、思わぬ経路で影響が及ぶということは大いにありうるでしょう。影響関係が無意識の領域で生じていれば、何がどのように影響を与えたのかという痕跡は見えにくくなります。最終的にはほぼ検証不能となる。もちろん読者の心理としては、それでも何らかの影響関係を措定して納得したい。「なるほど」と思いたい。しばしば文学作品について私たちが語りたくなるきっかけはそうしたところにあります。
文学作品に描かれる人物たちの心理も、共感や推量などの「心を読む」という作業を通して表現されています。こちらも検証するのは容易ではない。語り手や主人公が読み取る他者の「心の内容」が適切なのかどうか、その信頼性も高くはありません。しかし、検証の容易ではない行為を、私たちは頼まれてもいないのにしてしまう。人間というのはそういう存在なのです。そうした習慣が大いに役立つこともあれば、人々の間に諍(いさか)いを生み出し、結果的に害になることもある。そして、そんなふうについ「心を読もうとしてしまう」私たちの宿痾は、『吾輩は猫である』でも鍵になっています。何しろ猫は、人間のことはよくわからない、と距離を置くわりに、主人をはじめとした人物たちを徹底的に観察し、その心理も描き出すからです。私たちがこの作品に引き込まれる理由もそのあたりに探ることができそうです。
迷う漱石
先ほど『吾輩は猫である』は行き当たりばったりで書かれたと言いましたが、この作品の執筆は漱石の人生にも大きな「行き当たりばったり」を導き込むことになります。もともと漱石は明治になって整備されつつあった学歴社会の中心街道を歩んでいました。漱石が卒業した帝国大学(後の東京帝国大学)は、その後進である現在の東京大学とは比べものにならないほどのエリート大学で、能力や環境などさまざまな意味で恵まれた人しか進むことのできない場所でした。
漱石はそこで今で言う「ネイティブ・スピーカー」による直伝を受けて英文学の素養を積みます。しかし、賢い漱石だけあって教えられたことを鵜呑みにするのではなく、ときに不満をもったり、疑念を抱えて自問自答したりします。そんななかで漱石の前に大きく立ち塞がったのは、「英文学とは何か?」「英文学研究とはどのようなものか?」という問いでした。ジェームズ・メイン・ディクソンの授業を受けつつも、漱石は今ひとつ釈然としない思いを抱き、自分は英文学者として何をしたらいいのかという迷いを捨てきれずにいたのです。
そうした迷いがあったからかもしれませんが、漱石は教師という職業を負担に感じていたようです。大学を出てから高等師範(現・筑波大学)や東京専門学校(現・早稲田大学)などのエリート機関で教鞭を執り始めたものの、どうもうまくいかない。そのあげく、突如として東京の仕事を辞し、松山の中学校に転任することを決めてしまいます。そこからさらに熊本五髙(現・熊本大学)に移りますが、そこで文部省からの派遣留学という形でロンドンに渡ります。
漱石にとってはこの留学は西洋の文物に直に触れ、研究を深める好機でした。実際、彼は非常に熱心に勉学に打ち込み、東洋辺境の後進的な国から来た青年としてときに屈辱感に苛まれつつも、それに負けないだけのプライドも養います。しかし、そのやる気はときに過剰になったかもしれません。また、彼自身がもともと内に抱えていた精神の不安定さのようなものも災いしたのかもしれませんが、ロンドンでかなり追い詰められた精神状況となり「夏目狂セリ」との報告が在留邦人から送られる事態にもなります。
帰国後、漱石は友人の斡旋もあって、ふたたび大学で教員としての地位を得ます。しかし、その授業は必ずしも大人気というわけにはいかなかったようです。東京帝国大学で漱石が講師として行った講義は『文学論』『文学評論』といった書物として残されていますが、とくに前者は読みとおすのになかなか骨の折れるものです。
漱石はたいへんまじめな人なので、職位にふさわしい研究や教育を行おうと彼なりに努めたのでしょう。しかし、彼がのびのびと充実感をもってそれをやったかというと、少々疑わしいところがあります。そんななかで彼は『吾輩は猫である』を書いた。そこで彼は何かの手応えを得ました。もともと大学で講義をすることにそれほどの喜びを見いだしていなかった漱石の心の中心は、こうして研究教育から別の領域へと移っていくわけです。これは決してはじめから彼が思い描いていた道のりではなかったでしょう。むしろ予想外の展開とも言えますが、ご存じの通り、彼はやがて朝日新聞社の誘いを受けて大学を辞職し、その専属社員として小説の執筆に打ち込むことになります。
本書『別冊NHK100分de名著 集中講義 夏目漱石 「文豪」の全身を読みあかす』では、
・第1講 『吾輩は猫である』の「胃弱」
・第2講 『三四郎』と歩行のゆくえ
・第3講 『夢十夜』と不安な眼
・第4講 『道草』とお腹の具合
・第5講 『明暗』の「奥」にあるもの
という全5回の講義を通して、漱石の葛藤に共鳴し、その全身を読みあかしていきます。
■『別冊NHK100分de名著 集中講義 夏目漱石 「文豪」の全身を読みあかす』(阿部公彦 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
※本書における『吾輩は猫である』『三四郎』『夢十夜』『道草』『明暗』の引用は新潮文庫版に拠りますが、読みやすさを考慮して一部ふりがなを補っています。なお、出典には今日的価値観にはそぐわない表現がありますが、文学的価値および原典尊重のため、そのまま掲載しています。
阿部公彦(あべ・まさひこ)
東京大学教授。1966年横浜市生まれ。東京大学文学部卒。同大学修士課程を経て、ケンブリッジ大学で97年に博士号取得(博士論文は Wallace Stevens and the Aesthetic of Boredom「ウォレス・スティーヴンズと退屈の美学」)。現在、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授。98年、小説「荒れ野に行く」で早稲田文学新人賞受賞、2013年、『文学を〈凝視〉する』(岩波書店)でサントリー学芸賞受賞。英米文学研究と文学一般の評論に取り組む。著書に『英詩のわかり方』『英語文章読本』『英語的思考を読む』(以上、研究社)、『小説的思考のススメ』『詩的思考のめざめ』(東京大学出版会)、『名作をいじる』(立東舎)、『英文学教授が教えたがる 名作の英語』(文藝春秋)、『事務に踊る人々』(講談社)などの啓蒙書やエッセイ、『モダンの近似値』『即興文学のつくり方』(以上、松柏社)、『スローモーション考』(南雲堂)、『善意と悪意の英文学史』(東京大学出版会)、『幼さという戦略』(朝日選書)などの専門書があり、翻訳に『フランク・オコナー短編集』、マラマッド『魔法の樽 他十二編』(以上、岩波文庫)などがある。
※すべて刊行時の情報です。

