介護認定調査員をしている40代の女性は仕事柄、多くの要介護者に会う。介護の対処の知識はあったはずだが、いざ実母が要介護状態になるとその対処に苦慮した。日に日に、何もできなくなる親の下の世話もする女性が“心の平穏”を辛うじて保つことができたのは、唯一続けていた「ある趣味」のおかげだった――(後編/全2回)。

ゴミ屋敷の実家の片付け「捨てる予定のモノが必ず戻された」ワケ

前編から続く。

20代で結婚・出産して以降、近畿地方に住む松野貴美さん(仮名・40代・既婚)には信じられないほど多くの試練がやってきた。

夫は精神に不調をきたすと壁に穴を開け罵詈(ばり)雑言を吐く、義父は目が不自由で介助が必要だ、実父はかつて胃がんを患い最近は肺炎で入院した、実母は認知症になった、そして自分自身は介護認定調査員の仕事をしながら、3人の子どもを育て、親たちのケアもしてきた。心身のストレスからパニック障害になり、子宮頸がんの一歩手前の症状を抱えた。

実父が肺炎で入院したため、実家には認知症の実母がひとりで暮らしている。仕事と育児の合間に松野さんはモノが溢れ、足の踏み場もなく、ゴミ屋敷と化した実家の片付けを始めた。父親は退院後、介護が必要になると思い、先んじて介護環境を整えておこうと考えたためだ。

しかし、実家の片付けは難航することになる。両親が夫婦で理容室を営んでいた実家の片隅の、もう使われていない店舗部分に不要な家具や荷物を集めて、後日運び出そうと考えるが、店舗部分に置いたはずのモノがいつのまにか戻されていて、なかなか片付けがはかどらない。母親の仕業だった。

写真=iStock.com/cerro_photography
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「母が認知症になる前は、私は母と喧嘩なんて一度もしたことはありませんでした。でも実家の片付けをしていた頃は、何でもかんでも『これはまだ使うんじゃ!』『何でも捨てやがって!』と怒られて、何度喧嘩になったかわかりません」

実家を片付けていると、タンスの裏などから何枚もの福沢諭吉が出てきた。以前、松野さんが時々実家に顔を出していた頃に、母親が「お金がなくなった。泥棒に盗られたかもしれん」と言っていたことがあり、松野さんは、「そうかもしれんけど仕方ないわ」と言って聞き流していた。松野さんは、自分でどこへ置いたか忘れてしまう認知症特有の症状だと気づきながらも、見て見ぬ振りをしてきた自分を責めた。

それでも約1カ月後には、2トントラック4台分の不要物を処分し、父親を介護できる環境を整えることができた。

■肺炎だった父は無事退院したが飲み薬の副作用が…64歳で急死

そして2016年9月末、父親は退院し、実家へ戻って来た。ところが父親は、四六時中倦怠感を訴え、起き上がるとフラつき、ほとんど寝たきり状態となってしまう。

実家へ戻ってきて2日後、あまりに父親の様子がおかしいため、病院へ連れて行くと、飲み薬の副作用で肝機能が悪化しており、そのまま入院することに。

そして10月半ば、肝炎を起こした父親は、肝不全のため急死した。64歳だった。

松野さんは、葬儀の手配、親戚や父親の友人への連絡、今後の母親の介護のことなど、やらなくてはならないことや考えなくてはならないことが多すぎて、悲しんでいる暇がなかった。

「葬儀中、母が友人たちの前で泣き崩れている姿を何度も目にしましたが、私には母をいたわる余裕も、自分自身が涙を流す余裕もありませんでした。正直、私は一人で両親を介護するのは難しいと思っていました。父の再入院後、父も私も父の死が近いことが分かっていたため、今後の母の介護やお金のことなどを父に相談することができたのは、良かったと思います」

松野さんは再入院した父親の面会の帰り道、ふいに前が見えなくなり、車を端に停めた。

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愛する父はもうじき死ぬ。母も、もう昔の母ではなくなった。仕事や育児は待ったなし。精神科に通いながら働く夫にはSOSを出せない……。孤立無援の私は、この後、どう生きていけばいいのか。不安が全身を覆いつくし、自然と目から溢れ出るものがあった。

■若年性アルツハイマーの母親はスマホを使えなくなった

父親が亡くなり、母親を一人にしておけないと考えた松野さんは、母親を自分の家に呼び寄せ、同居することにした。

ちょうどこの頃から夫は他県へ単身赴任が決まり、社会人になった長男は家を出ていた。長女は看護学校を辞めてから美容系の仕事に就き、忙しくしていたし、次男は学校と陸上部の活動でほとんど家にいなかった。それでも子どもたちは、家にいるときに祖母が危ないことをしそうなときは「ばあちゃん、危ないよ」と声をかけたり、サポートが必要なときは手を貸したりしてくれた。

母親を病院に連れて行くと、「若年性アルツハイマー」との診断がついた。介護認定調査の結果は、要介護1。松野さんはすぐにデイサービスの利用を申し込んだ。

母親は、この頃はまだ自分のことは自分ででき、簡単な家事なら手伝うこともできたが、短期記憶が弱くなってきており、すぐにモノを失くし、何度教えてもテレビのリモコンや携帯電話の使い方が分からなくなる。また、雑巾がけをしても掃除機をかけても、同じところばかり繰り返しかけていた。

「床屋をしていた両親は、人に好かれる朗らかな性格でした。特に母は、よく動き、よく気がつく、笑顔の多い癒やし系。私には3歳下に妹がいますが、私も妹も母のことが大好きでした」

■起床は5時、子どもたちの弁当を作った後、出勤するが…

松野さんは平日、朝5時ごろに起きて子どもたちと自分の弁当を作り、電車通学をしている高校生の次男を起こし、車で駅まで送っていく。

次に母親を起こして、自分も食事をしながら母親の食事介助をし、終わったら着替えさせる。長女を7時ごろ起こしたあと、8時ごろ母親をデイサービスに送り、仕事に出る。

認知症の症状が進んできた母親は、出発ギリギリに大便や失禁をしてしまい、その処理に時間をとられ、仕事に遅刻してしまうこともあった。

■ワンオペ育児・家事・介護「母はついに娘の名前がわからなくなった」

2018年ごろになると、母親は言語能力が急速に低下し、松野さんの名前がわからなくなるだけでなく、うまく言葉が出なくなった。それでも母親は、時々トイレを失敗して松野さんに下着やズボンを取り替えてもらうときには、「ごめんね」「ありがとう」と口にした。

16時半に仕事が終わると、17時には帰宅し、デイサービスから帰ってきた母親を迎え、食事の支度などの家事に追われる。母親のお風呂はいつも2人で一緒に入り、入浴介助した。

松野さんの唯一の趣味である市の陸上クラブの活動は、週に1回、21時までだ。陸上する日は、母親がデイサービスから帰ってきて松野さんが帰宅するまでの間、結婚して近くに家族と暮らしている妹に来てもらい、母親の世話はヘルパーに頼んでいる。

松野さんの3歳下の妹は、子どもの頃からメンタルが弱かった。10代の頃には、恋愛関係の悩みからうつ病を発症し、しばらく部屋に引きこもり、自殺未遂までしたこともあった。その後、妹は20代で結婚したが、産後うつになり、子育ても家事もできなくなってしまう。そのため、見かねた母親が助け舟を出し、妹家族は妹の症状が落ち着くまで、4年ほど実家に身を寄せていた。

「正直に言えば、妹に対しては、母親の介護をすべて私に任せきりでずるいなと思う気持ちはあります。でも、精神的に脆い妹に母の介護は耐えられないでしょう。だから、私が看るしかありません。妹もそれをわかっているのか、姉がプロだから任せとけばいいという感じなのか、手を出さないけれど口も出さないので、それだけは助かっています」

■単身赴任中の夫がコロナ感染、母親は目の前で失禁・大便

2020年に入ってしばらくすると、単身赴任中の夫が「調子が悪い」と言う。夫は月に2回ほど家に帰ってきていたが、世の中はコロナ禍。体調を崩している夫は、帰宅を控え、単身赴任先でひとり自宅療養していた。

2、3日様子を見ていたが、夫の病状は悪化する一方。電話で聞く症状から、松野さんはコロナを疑い、夫が単身赴任している市の保健所や大きな病院などに問い合わせ、PCR検査をしてもらえるよう相談。すると、夫が自宅療養を始めて10日ほど経った頃、ようやくPCR検査をしてくれることになった。

案の定、検査の結果は陽性。幸い病床に空きがあったため即入院することができ、レントゲンを撮ると肺は真っ白。医師は「もう少し遅かったら、命が危なかった」と言った。

「実は、私たち夫婦の仲は、完全に冷え切っていました。夫は精神的に調子が悪くないときでもモラハラ的な発言が増え、私のことを見下した態度で接するようになっていたのです。だから6年前に夫が単身赴任することになり、私は内心喜んでいました。でも、私が保健所に問い合わせるなど尽力したおかげで、自分の命が助かったと思ったのか、コロナから回復してからは、夫の私への接し方が変わったように感じます」

写真=iStock.com/ipopba
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7月になると、母親はますます足腰が弱くなり、介護はたちまち重労働になった。トイレに連れて行ってもズボンの上げ下ろしさえ自分でできず、失禁や大便を漏らしてしまうことも一度や二度ではなかった。食事も食べさせなければ全くできず、すべてにおいて介助が必要になり、介護度は要介護4に。デイサービスの送迎車に乗り降りすることも難しくなってきていた。

しかし、母親がデイサービスに行ってくれないと、松野さんは仕事に行けない。困った松野さんは、母親が認知症で通院している病院の主治医に相談。すると、「ちょうど今、病室に空きが出たのですが、入院されますか?」と提案があった。そこは介護度の高い認知症患者を預かる認知症の専門病院で、特養が決まるまで置いてくれた。

■現役の介護認定調査員「母が要介護になって肌で感じたこと」

松野さんは、母親が要介護4になったことを機に、昨秋に特養を申し込んでいた。

2021年3月。特養に空きが出たとの連絡が入り、同月21日から入れることになった。

「私は介護認定調査員という仕事柄、たくさんの認知症の人を見てきましたから、『現状、精神的な症状が出ているから、次は身体的な症状が出るかな』とか、『被害妄想が出たからそろそろ中期に入ったかな』といった感じに先がある程度わかるので、そこまで介護がつらいとか苦しいとかは感じませんでした。母親が同じことを何回もするときもイライラせず、『今日は何回やるかな?』と楽しむように努めましたし、おむつ交換も、『今回はこれだけ時間がかかった。次はもっと短時間でやろう!』みたいに毎回チャレンジしていました。介護っていつまで続くかわからないものなので、そうやって気持ちを前向きに保っていないと、続けられないと思います」

そんな松野さんでも、大好きな陸上の時間を奪われるのはつらかった。今でこそ週1回の活動に参加できているが、当時は月1回になってしまうことも少なくなかった。

「自分に使える時間がないのはつらかったですが、自分の母親を介護することで、介護する人の気持ちがわかるようになったのはよかったと思います。認定調査員の仕事で介護中の家庭を訪問しますが、『今、この人はここに困ってるんだろうな』ということがわかるようになって、『この部分はつらくないですか?』などと声をかけやすくなりましたし、『私も介護をしています。一緒に頑張りましょうね』と言うと、相手の方も安心されるようで、『介護のことがよくわかる方でよかった』と喜ばれるようになりました」

認定調査員の仕事は、多い日で1日5〜6家庭を訪問する。松野さんが管轄するエリアには島も含まれているため、船で市内の島へ渡る日もある。島へ渡ると、ついでにそこに住む父方の祖父母も見舞った。

「自分なんかよりもっと苦労されている方がいることを知ると、『私ももっと頑張ろう』と思うことができました。認定調査員の仕事では、日々利用者さんからの学びや気付きがあります」

■介護が一番大変な時期も大好きな「走ること」を諦めなかった

松野さんは、子育てと仕事の両立と夫への対応に悩み、一時は心療内科に通ったが、結局3年ほどで断薬に成功。現在は通院も服薬もしていない。今も不調なときの夫に手がかかることは変わりないが、「夫の誹謗中傷を聞き流すすべを身に付けました」と笑う。

そして、認知症になった親族の介護をしている人々へこうアドバイスするのだ。

認知症の症状の経過を知っていれば、ある程度手立てがわかります。だから病気に関して学び、情報収集しておくと振り回されずに済み、少しは介護が楽になるのではないかと思います。そして、けっして1人で抱え込まないでください。私は無理を続けて自分が介護うつになってしまった人をたくさん知っています。完璧を求めるあまり、自分を責める人、暴力に出てしまう人もいます。ダブルケアの人はなおさら、絶対に1人でやろうとしないで。介護サービスをしっかり使って、できるだけ楽に、横着して介護をしてほしいと思います。そうでないと、介護は続けられません」

特養に移った母親とは、コロナ禍のため、一度も会えていない。入院中もほとんど面会できず、母親はもう、言われたことも理解できない様子だ。特養への入所の際、胃ろうや経鼻経管栄養など、延命治療などについての確認があったが、松野さんはすべて断った。

「母は、全介助必要な状態になってまで、長生きを望んでいないと思います。ベッドで硬直したまま動かない人や浮腫んだ人、いろいろな方を見てきましたが、食べられなくなったら無理やり食べさせる必要はなく、母親の場合、自然に枯れるように亡くなるのが本人の望みでもあるのではないかと考えています」

島で暮らしていた父方の祖父母は、現地に住む父親の弟が在宅介護をしていたが、祖母は2017年、自宅で誤嚥性肺炎を起こして、85歳で亡くなった。その後、祖父は徐々に衰えていき、次第に食べられなくなり、ある日おむつを替えてもらった後、「ありがとう」と一言つぶやき、2020年12月に93歳で眠るように亡くなった。

「私も心情的には母を自宅で看取ってあげたいと思っています。でも、やっぱり現実的には難しいですね……」

松野さんは現在、週に1〜2回、1回あたり5〜6キロをジョギングし、体力維持に努めつつ、市の陸上クラブの小学生や中学生のコーチとして、子どもたちとともに大会に出場している。

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ダブルケアでもシングル介護でも、介護のキーパーソンは、被介護者の介護度が重くなるにつれて、いや応なしに介護が自分の人生の中心を占めることになる。

しかし松野さんは、介護が一番大変な時期も、大好きな「走ること」を諦めなかった。

介護者と被介護者の距離が近すぎると共依存関係に陥りやすいが、時間の長短にかかわらず、介護のことを忘れて、自分で自分のために使う時間を守ることができる人は、その危険性が低いように思う。難しいことかもしれないが、誰もが自分の人生を生きられる社会の実現を望んでやまない。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。
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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)