リーダーのキム・イェスルは江原道(カンウォンド)洪川(ホンチョン)で生まれ、春川(チュンチョン)で育った。彼の父キム・ギュヒョンは、若い頃、東洋画と西洋画を行き来した画家であった。子どもの頃、彼の家では風変わりな父親の後輩たちが集まってお酒を飲み、盛り上がれば歌まで歌うことがよくあったという。そして、彼はそのような光景に慣れていた。「小学生の頃、テレビで初めてソテジワアイドゥル(ソ・テジと子供たち)を見ました。そして、中学生になって、インディーズバンドCrying Nutのカセットテープを聞きながら、ロック音楽に興味を持ち始めました。それで、2000年から叔母と叔父に基本コードを習って、独学でギターを覚えました」ソウルに上京し大学に入学した彼は、音楽サークル“トロス”のギターがうまい新入生として有名になった。そうして新入生の歓迎会で先輩の勧めにより、大学内のキャンパスバンド“1905”のメンバーに電撃的に抜擢されたのだ。

全羅南道(チョルラナムド)光州(クァンジュ)で生まれ、音楽とはまったく関係のない環境で育ったリードボーカルのファン・インギョンは、幼い頃、音楽自体が好きではなかった。中学生になってクラシックギター部でギターを弾いたが、かっこいいとは思えるが面白いとは思わなかった。ある日、ギター部の先輩が伴奏の楽譜を持ってきて「ギターのコードを押して演奏したら歌が歌える」と言った。そこで、先輩がコピーしてくれた楽譜を持って帰り、公衆電話のカードを切ってピックを作り、シン・ソンウがリーダーだった3人組のバンド、ジニー(Geenie)の「何だ、これは」を弾いてみると、とても面白かったという。高校生の時はアコースティック・ギター部で活動した。「アコースティック・ギター部の部長として活動しましたが、常にバンド部が羨ましかったです。当時は、バンドというものは、特別な才能を持ったり訓練を受けたりした人々だけができる、違う次元のものだろうと難しく考えていました」

当時、学校が終わると、近所のゲームセンターの小さなコインカラオケのブースを自分の専用スタジオにし、1曲当たり200ウォンを入れ歌の練習をしたという。「施設は劣悪だったので、曲ごとにすでに点数がつけられていたんです。だから、歌の点数はいつも同じでした。mp3を持っていって自分が歌ったものを録音したこともありますが、歌謡やポップ、ハードロックまで色んなジャンルの曲を歌いました」彼は浪人していた時にインディーズバンド、オンニネイバルグァンはもちろん、レディオヘッド、ニルヴァーナのような外国のポップミュージックやバンド音楽を本格的に始めた。大学に入りコインカラオケで磨いた実力で、大学内のバンド“1905”のオーディションに挑戦した。「26分の1という激しい競争でボーカルに選ばれて、2年生まで活動しました。色んな曲をコピーして活動していた時、ギターを弾いていたメンバーが脱退したんです。その時、違うサークルでギターがうまくて有名だったキム・イェスルがパラシュートで降りて来たかのようにバンドに入ってきて初めて会いました(笑)」

これに対し、キム・イェスルは「最初、ファン・インギョンと僕はまったく仲良くなくて、むしろかなり距離がありました。そして、2007年にファン・インギョンが入隊し、僕はコピー曲を演奏し続けながら弘大に出ていました。当時、できたばかりのクラブでエモコアやハードコア、パックロックを組み入れた5人組のバンド、マリエ ドリラのメンバーとして活動を始めました。その時は髪の毛を腰のところまで長く伸ばして、1曲を演奏する間にジャンプを5回もするほど、過激でした(笑)」という。しかし、メンバーたちの様々な内部事情により、1年半の間に5、6回だけコンサートを行った後、バンドが解散した。自作曲を作りたいと思った彼は、サークルのメンバーだったキム・ナヨンと新しいバンドを結成することになる。