インディーズ音楽の本場である弘大前のソウル麻浦区(マポ)区延嬉洞(ヨニドン)で生まれた唯一の女性メンバーであるベースのキム・ナヨンは、7歳でピアノを始めた。「小学校2、3年生の時、ポップソングと歌曲が好きだった父が楽譜を買ってくると、私がそれを弾いて父が歌うことがよくありました。当時、私はザ・ビートルズのバンド音楽もピアノの伴奏曲だと思っていました。高校生になって初めて原曲がギター音楽ということを知りました。しばらくの間、楽器を演奏するチャンスがなかったんですけど、大学に入ってある先輩が酔っ払った私を音楽サークル“トラス”に連れて行きました。それで、もう一度、することになりました。ピアノを弾けるという理由で最初はキーボードを担当しましたが、ギターが面白くてギターを弾くなど、色々しているうち、結局、ベースを弾くことになりました」

2009年の夏、音楽サークルで出会ったキム・イェスルとキム・ナヨンは、他の女性ボーカルと一緒に3人組の男女バンドCOOL CATを結成した。自作曲を作って弘大のクラブLydianとFFで1年半ほど活動したが、女性ボーカルが外国に交換留学生として行くことになり、バンドが解散した。そしてメンバーの補充が必要になったのである。一方、その時、ファン・インギョンが除隊をして光州にいたので、キム・イェスルはボーカル兼ギターをしたいという彼に「ソウルに来てオーディションを受けなさい」と言って、彼に指定曲と自由曲を与えた。だが、キム・ナヨンもベースとともにリードボーカルをやりたいと言い出し、突如ファン・インギョンとライバルの構図が形成された。審査をしたキム・イェスルは「歌は2人ともうまかったんですが、自作曲があるのかと聞いた時、ナヨンは準備したものがありませんでした。それで、ファン・インギョンをボーカルとして選びました」と話した。当時はバンドにリーダーもおらず、バンド文化にも慣れていなかったので、対立が生じてもどうやって解決すればいいのか分からなかった。今はコンサート前に頭を整えてあげるほど親友になったが(もちろん、キム・ナヨンはメンバー全員のヘアスタイルを担当する)、当時傷ついたキム・ナヨンはキム・イェスルと6ヶ月の間、連絡をせずに遠ざかった。そのため、KAIST(韓国科学技術院)に通っていた女性ドラマーのカン・ヒョンジョンと音楽サークルにいたイム・ジヒョクを迎え入れて作ったバンドが電気ウナギだ。臨時で構成されたメンバーで2010年にデビューEPアルバムをリリースした。しかし、専門的な音楽活動に興味がなかった新しく入った2人は、バンドからすぐに脱退し、最初のメンバーだったベースのキム・ナヨンが2枚目のEPアルバムから再度、参加することになった。

全羅南道(チョルラナムド)光州で生まれ、生後6ヶ月でソウルに上京したドラムのキム・ミンヒョクの家庭は、街中にあるカラオケにさえも行かないほど、音楽と遥かに遠い雰囲気だった。小学5年生の時、ソ・テジの音楽に魅了され、父親にねだって携帯用のカセットプレーヤー、マイマイ(カセットプレーヤーのブランド)を買ってもらった。中学生の時、ポップソング部に入ってザ・ビートルズやカーペンターズなどのポップソングを聞き、密輸されたビジュアルロックバンドのX JAPANやGLAYなど日本の音楽もたくさん聞いた。高校卒業を控え、自分でも演奏をしたいと思い楽器教室に行った。だが、楽器を買うお金がなくて「スティックさえあればできる」と聞いたドラムを選択し習った。大学でバンドサークルの“ソウルズ”に入った彼は、メタリカやメガデスなどハードな音楽を演奏した。

彼は除隊した後、2005年に光州で4人組のインディーズバンド、レモニ マカロニ(サルラン)を結成し、2〜3年ほど活動した。レモニ マカロニ(サルラン)は光州唯一のモダンロックバンドだった。当時、光州の市内にクラブはコクスとNEVER MINDの2ヶ所しかなかったという。そこにNell、Delispice、オンニネイバルグァンが来て行った合同コンサートを見て、音楽をちゃんとやってみようと思った彼は無条件に上京した。それが2008年のことである。上京生活は、京畿道(キョンギド)一山(イルサン)注葉洞(チュヨプドン)でドラムレッスンをしたり楽器を売ったりしながら、しばらくの間、弘大を行き来していた。そして、2011年、知り合いのルームメートだったキム・ナヨンを通じて電気ウナギがドラマーを募集しているという話を聞き、オーディションを受けてバンドの5番目のドラマーとして2枚目のEPアルバムに合流した。