田中角栄がゲイバーのママに頼んだ「誕生日プレゼント」が意外すぎた…昭和の政治家が熱中した「赤坂遊び」のスゴさ
■赤坂は政治家と芸者とゲイの町だった
昭和の頃、赤坂は料亭の町だった。かつて田町通りと呼ばれ、今やエスプラナード赤坂になった赤坂見附駅を出た通りを中心に100軒近い料亭が営業していたのである。赤坂には見番もあり、芸者は400人近くいた。夕方になると日本髪、着物を着た芸者衆が人力車に乗って料亭の前に着く。ほぼ同じ頃には永田町から黒塗りに乗った長老政治家が黒塀の前で車から降りる。そうした姿を日常的に見ることのできる町だったのである。
昭和から令和の現在まで、赤坂でゲイバーを営むオーナーママ、おはるさんは「赤坂から粋な風情がなくなった」と嘆く。
「悲しい、ほんと悲しいわ。赤坂は粋な町だったの。黒塀に囲まれた料亭から、私たちの夜が始まる……、そんな町でした。川崎、茄子、千代新、大野、中川……。全部なくなりました。自民党の先生方は派閥ごとに行く料亭は決まっていたんです。田中派なら千代新、中曽根派なら茄子。料亭に行けば政治家の先生たちと遊びました。
安倍(晋太郎 安倍総理の父)先生には特に可愛がっていただきました。安倍先生や芦田伸介さんと一緒にお座敷麻雀をやったこともありました。麻雀の後は芸者をあげて遊びました。赤坂は政治家と芸者とゲイの町だったんです。それが今ではファストフードとカフェとコンビニでしょう。様変わりしました。私は現役よ。赤坂から黒塀はなくなりましたけれど、ゲイバーは永遠です」
■「原田啓二」が「おはるさん」になるまで
町の変化を語るのは、1974年に前身のゲイバーを創業してから、この道52年になる現役最高齢のゲイ、おはるさんこと、原田啓二だ。84歳の現在、彼女は赤坂TBSの向かい側のビルで「ニューはる」を経営している。彼女の源氏名は春駒、またの名は「赤坂のセイウチ」。セイウチはアシカ、アザラシ、オットセイと違い、口まわりの筋肉が発達していて、口笛も吹けるし、シャボン玉を膨らませることができる。セイウチは恐ろしいほどの吸引力を持っており、肺活量は成人男性の7倍にもなる。

おはるさんは深夜まで店にいる。歌って、踊って、きわどいジョークを連発して、なおかつ成人男性の7倍の吸引力で、昭和から平成生まれまでの客を楽しませている。
1942年、彼女は日本橋堀留町に生まれた。6人兄弟姉妹の末っ子。色は白くなかったが、愛嬌のある子どもで、母親や兄弟姉妹からは「蝶よ花よ」と大切に育てられた。彼女が小学校に上がる前、父親は愛人をつくって家出してしまう。母親とふたりの姉と4人で暮らすことになった。そこで、母親は子どもたちを連れて熱海へ転居することにした。母親の実家が熱海で旅館をやっていたため、そこに身を寄せることにしたのである。小学生から高校2年生まで彼女は熱海で暮らした。
■「男の子と一緒に着替えるのが恥ずかしくて」
彼女はこう言った。
「祖母は熱海の糸川沿いで娼妓がいる宿をやっていたんです。ですから、子どもの頃から男女のことは見慣れていました。でも、女の裸にはまったく関心はなくて、男ばっかり見てたわ。姉がくれたレースのパンティを穿いて、おねえ言葉でしゃべっていたの。母は何も言わなかった。『あなたの好きにしなさい』と自由に育てられました。
小学校に通うようになってから困ったのが体育の時間でした。教室で男の子と一緒に着替えをするのが恥ずかしくて……。女の子たちからはラブレターをもらったの。男の子からはすれ違いざまにケツを撫でられたりしたわね。初体験は高校2年生の時でした。同級生の男の子に抱き寄せられて……。でも、東京へ転居することになって、初恋の彼とは別れました」
女になった原田啓二は熱海から赤坂に引っ越してきた。自宅の近くにあった高校に転校し、大学は日本大学に進んだ。学部は芸術学部。赤坂から西武池袋線の江古田駅に通学していたが、銀座に立ち寄るようになり、斯界では知られた老舗のゲイバー「青江」でアルバイトを始めた。1960年のことだった。第1回の東京オリンピックが開催される4年前である。新安保条約に反対する大勢の人々が国会前に押しかけ、デモを行う騒然とした時代だったが、おはるさんは銀座のゲイバーで酒とバラの日々を過ごしたのである。
■戦争帰りの男性から生まれた日本のゲイバー
当時、ゲイバーの数は「令和の現在よりもはるかに多かった」と、おはるさんは記憶している。
「ゲイバーって戦前はなかったのよ。男が女の服を着ているだけで警察に呼ばれたと、『やなぎ』のお母さんが言ってました。やなぎのお母さんは日本で初めて本格的なゲイバーを始めた人です。島田正雄。軍隊帰りのポツダム軍曹で、日本髪で着物を着ていました。青江のママの先輩にあたる人で、私にとっては、おばさんみたいな人でした」
当時、銀座には「やなぎ」を始めとしてゲイバーが何軒も集まっていた。最古参のやなぎは1950年の開店。ママは満州の最前線から戻ってきた島田正雄。やなぎから独立したのがおはるさんが勤めた「青江」である。青江のママは法政大学予科から学徒出陣し、習志野の戦車隊で活躍していた。本名は青江忠一。ちなみに「青江」でおはるさんの同僚ホステスだったのがカルーセル麻紀。彼女もまだ現役のタレントである。

もう一軒、やなぎから独立したのがボンヌール。ママの吉野寿雄は高倉健主演の『網走番外地』シリーズにも出演した俳優でもある。吉野のママは後に六本木に移り、「吉野」を開店した。「吉野」は2002年まで営業していた。
わたし自身は「やなぎ」は知らない。青江さん、吉野さんにはインタビューした。インタビューしただけで、羽交い絞めにもされなかったし、吸引力を発揮されたこともなかった。ふたりは淡々とゲイバー界の歴史について語ってくれた。
■新宿二丁目には絶対に行かない
他にも「お福」「真弓」「トミー」といったゲイバーが銀座で営業していた。銀座と並ぶゲイバーの赤坂には「小夏」「ジョイ」「うさぎ」など数軒の店があった。池袋には作家の三島由紀夫が贔屓にしていた「グレイ」があった。おはるさんたち「正統派のゲイ」が行く店は銀座、赤坂、そして、六本木の一部の店、さらに池袋の「グレイ」だけだった。上野、新宿にある店は絶対に足を踏み入れなかった。
おはるさんに言わせれば「新宿二丁目はアナザーワールドなの。私たちとは違う世界で、言葉も通じないのよ」である。
高度成長期、東京の繁華街にはゲイバーが続々と開店した。それはゲイ人口が急増したからではない。戦後の開放的な雰囲気、好調な日本経済が背景にあった。そして、銀座、赤坂にできた「正統派ゲイバー」は上野、新宿にあるようなゲイ同士が集まる店ではなかった。「ノンケ」(non気=その気がない)の紳士たちがクラブのホステスを連れてきて、夜通し楽しく酒を飲む場所で、ゲイが一般客をもてなす店だった。また、正統派ゲイバーが売り物にしたのはおしゃべりだった。歌ったり、踊ったりもしたけれど、接客の芸はショーではなく、軽妙で、洒脱で、エッチな話だったのである。正統派ゲイバーはショーパブ、コミックパブではなかった。

■顔が腫れるくらいぶん殴られて…
そして、料金はものすごく高かった。当時の銀座の一流クラブと同じ、もしくはそれよりもなお高いのがゲイバーの料金だったという。銀座の高級クラブのママと銀座のゲイバーのママの給料はほぼ同じ金額で、「月給は100万円、チップもひと月100万円」と言われた。入店してきたゲイボーイの給料は安かったが、チップは多かった。やなぎ、青江、吉野という三大高級ゲイバーの給料は安いほうではなかったが、教育が厳しいので、長く持つゲイボーイは決して多くはなかった。
おはるさんはこう証言する。
「やなぎのお母さんは厳しかったし、青江ママもそれは怖かったわ。ふたりとも軍隊にいたから、すぐ殴るのよ。青江のママは元は戦車隊長でしょう。言葉づかいや態度が悪いとすぐに鉄拳が飛んでくる。私は入店した頃、顔が腫れるくらいぶん殴られた。『飲む、食う、歌う、踊る、全部できなきゃ駄目よ』って言われて、新人はお客さんの前でウイスキーのボトル一本をラッパ飲みさせられるの。寿司のばか食いもさせられたわ。戻しそうになったら、トイレで吐いて、涼しい顔でお客さんの前に戻らなきゃならない。今の若い子にそんなことしたら、みんな逃げちゃうわ」
おはるさんがいた銀座の「青江」は当時、最先端の遊び場であり社交場だった。政治家、財界人、芸能人、スポーツ選手が集まり、社交する店だったのである。勝新太郎、水原弘、石原裕次郎、高倉健、美空ひばり、大原麗子といったスターが頻繁に顔を出していた。
おはるさん、カルーセル麻紀のふたりは「青江」のナンバーワンを争う売れっ子だったから、スターがやってくると、席に着いたのである。
■「かまかまショー」というショーの先駆け
おはるさんは働いて、働いて、働き抜いた。彼女の売り文句は「私、日大ゲイ術学部の1年生でーす」である。そう言いながら、しなだれかかると、紳士たちは鼻の下を長くする。
おはるさんは勉強を欠かさなかった。やってくるのは一流企業の幹部たちだから会話についていけるよう新聞、週刊誌を読みこんだ。社会情勢にも通じている風でなくてはならなかったのである。
「青江」のホステスたちは他の店に呼ばれることもあった。彼女たちは池袋にあったナイトクラブ「金の扉」に招かれた。その店で「銀座、青江のゲイボーイが歌って踊る、かまかまショー」と銘打ち、コミックショーを開催したのである。その後、ショーパブ、コミックパブといったゲイバーの変型種が六本木に登場するが、「かまかまショー」は先駆けをなすエンターテインメントだった。薄化粧をした彼女たちはラインダンスを踊り、シャンソンを歌った。パンティを脱いでは客席に放り投げた。かまかまショーは1カ月続いたのだが、大人気となり、都内だけでなく、地方からも客が詰めかけてきた。ふと見ると、ナイトクラブの客席には日大芸術学部の同級生や教授までがやってきていたのだった。
■「私たちゲイにとっては世界はひとつ」
大学を卒業した彼女は銀座で水商売の世界に進んだ。「青江」時代の接客術を伝え聞いた下心のある金持ちからスカウトされ、「ミニクラブ」と呼ばれたホステスを置いたカジュアルな店のママになった。ホステスたちには「飲む、食う、歌う、踊る、何でもやるんだよ」と指示して店を盛り上げ、売り上げを作っていった。そうしているうちに「銀座におはるあり」と夜の世界で知られるゲイとなった彼女は30歳の時、溜池にあった都内屈指のナイトクラブ「エル・モロッコ」のママに抜擢された。
「エル・モロッコ」は「ニュー ラテン・クォーター」「コパカバーナ」と並ぶ東京の代表的ナイトクラブで、客は商社マン、海外からやってきたビジネスマンだった。バンドの演奏に合わせ、客は贔屓のホステスとダンスを踊る。来日した外国人スターも来店するクラブで、フランク・シナトラ、サミー・デイビス・ジュニアが、東京でコンサートを行った後に立ち寄った。
「エル・モロッコに来た外国人のスター、ビジネスマン、タレントとも付き合ったのよ。あの頃はいろんな国のボーイフレンドと遊んだわ。アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、トルコ……。もう何カ国かわからないくらい。私たちゲイにとっては世界はひとつ。ゲイはみな兄弟だから。毎晩、違う国のボーイフレンドと愛し合ったの」

■ゲイバーでモテたければ金を払うしかない
1973年、彼女は貯め込んだ金で初めての自分の店、「くらぶはる」を開店した。場所は自宅に近い赤坂だ。日本そばの名店「室町砂場 赤坂店」の近くにあるビルの地下である。彼女の店はバンドを雇い、グランドピアノも設置した。さらには美しい女性のホステスも数人置く30坪の店だった。おはるさんはそこを根城に21年間にわたって営業し、空間絶後ともいうべき利益を上げたのである。
店を開ける前、彼女は部下を集めて朝礼を行い、みんなで社訓を唱和した。
「いい、みんな、今日もぼって、ぼって、ぼったくるのよー!」と檄を飛ばす。
従業員は「おー」と鬨の声を上げ、「はいママ、ぼって、ぼって、ぼったくります!」と気合を入れる。
そして、開店。ぼられる客はいい迷惑だ。だが、ゲイバーでモテようと思ったら、金払いがよくなくてはならない。
おはるさんは「ゲイにとっていちばん大事なのがお金。2番目が愛なのよ」と言う。
「あの頃、ぼりまくって、ぼろ儲けだったわ。泥棒とか、人殺しとも言われた。『金持ちはケツの毛までむしる、貧乏人からでもぼったくる』というのが私たち、ゲイの信条だから。青江ママからは、『いいかい、客に情けなんかかけるんじゃないよ。ゲイは子供を産めない、家族がいないんだから、頼りになるのは金だけだよ』と教育された。あの頃のお客さまには本当に感謝です。でも、みんな、遊び方が粋だったのよ」

■政財界が料亭を愛する本当の理由
赤坂の料亭、ナイトクラブ、ゲイバーはプロたちしか働くことのできない場所だった。プロとは口が堅いという意味だ。誰に聞かれても、客のこと、客が話していたことを絶対に喋らないプロたちがいたからVIPは素顔をさらしたのである。
当時、政治家、経済人が赤坂の料亭へ行ったのは食事や酒が目的ではなかった。愛人との密会に使ったわけでもない。すべて仕事の打ち合わせだ。人には知られたくない会合を催す、あるいは外には漏らせない案件を打ち合わせるために使っていたのである。おはるさんたちゲイがその場に呼ばれるのは「絶対にしゃべらない」からだ。透明人間のように存在を消し、聞いたことはすぐに忘れる。それが一流のゲイ、一流のホステス、一流の仲居、一流の下足番の掟だ。掟を守ることのできない人間は料亭の打ち合わせには絶対に呼ばれなかった。
おはるさんは「水商売は見ざる、言わざる、聞かざる」と言った。
「うちの店には田中角栄先生がよくいらしていた。田中先生は若い政治家に必ず、こう言っていた。『いいかお前たち、男は口は堅くしとけ。ついでに、あそこはもっと硬くしておけ』。長く商売していると政治家、大企業の役員さん、部長さんが大勢やってきます。見ていると、大臣になる人、社長になる人には共通点があるの。みんな、口が堅い。絶対に秘密を守る。そういう人だけが偉くなるの。スケベで口が堅い人、偉くなるのはそういう人なの。私は大好き」
■昭和のサラリーマンは店でマナーを学んでいた
「くらぶはる」は遊び方を覚える道場だった。紹介者がいる紳士でなくては入ることはできない。他の客に迷惑をかけるようなバカ騒ぎをしてはいけない。ゲイ、ホステスに心づけを渡す時は帰り際に金封に包んだ1万円を手に握らせる。背広、靴、最高級でなくともいいけれど、しわが寄った服、磨いていない靴で店に来てはいけない……。客はそういう遊び方のマナーを教わったのである。
おはるさんは言う。
「料亭でも銀座のクラブでもゲイバーでも、私たちが接客して、お客さんを育てたんです。『あなた、今日はジャケットは着てないのね、ダメよ。ちゃんとドレスコードを守りなさい。ジーパンで料亭に来てはいけないのよ』って。ビーチサンダルで入ってきた若造には『あんた、外に出て靴屋さんで靴を買ってからうちにいらっしゃい』って注意する。チップも裸で渡しちゃだめよ、とか。
チップを出す人って2種類いるの。入ってきた時に渡す人、帰り際に渡す人。入ってきた時にチップを出す人って、『これで特別扱いしてくれ』ってことなの。帰りに渡す人は『今日は楽しかったよ』っていう感謝の気持ち。私たち客商売にとってはチップをいただくのはありがたいです。でも、印象に残るのは帰り際の人ね。だから、チップを渡すなら帰り際にしたほうがいいわよ」
■「絶体絶命」体当たり取材で見た衝撃の光景
わたし自身がはじめて「くらぶはる」に入ったのはバブルが終わった1993年のことだった。「地獄の店、危険な店、絶対に行ってはいけない店」というタイトルの記事を書くための体当たり取材だった。紹介者を通じてアポイントを取り、ひとりで出かけていった。赤坂六丁目の地下にあった店は入り口からすでに怪しい雰囲気が漂っていた。
階段を下りていくと、頑丈な扉には「会員制」と書いてあった。扉を開けると、薄暗い店内にはダンスフロア、グランドピアノ、ソファの席があって30人くらいは座れるようだった。内装は銀座のクラブと同じくらい豪華で、床には毛足の長いじゅうたんが敷いてあった。そのまま奥へ進んでいこうとしたら、足が何かにぶつかった。人がひとり床に転がって、寝息を立てていたのである。丸刈りでがっしりした体格の男がパンツ一丁で横たわり、背中には入れ墨が入っていた。熟睡しているようだったが、起こしたら大変なことになるとはわかった。
すると、立ち尽くしていたわたしの腕をつかむ人物がいた。
おはるさんだった。
「いらっしゃいませ」
真っ白なドレスに身を包んだ彼女は腕を引っ張り、わたしの耳元に息を吹きかけながら小さな声でそう言った。
帰ることはできない。絶体絶命だった。客は床に眠る男とわたし、そして、奥の席に数人が何もなかったようにブランデーを揺らしながら飲んでいた。
わたしを席に座らせると、彼女はグランドピアノの横に立った。目で合図を送ると、歌い始めた。越路吹雪の曲だった。

■大きなカバンを開けたら、札束がぎっしり
「ろくでなし」「ラストダンスは私に」そして、「イカルスの星」……。わたしたち客は拍手をし、やんややんやと喝采した。15分ほど続いたワンマンショーのアンコールは「愛の讃歌」。おはるさんはプロの歌手でもあることがわかった。
独唱タイムが終わったので、よし、帰ろうと思った時だった。ばたばたと足音がしたと思ったら、貧相な中年の男が大きなカバンを抱えて階段を下りてきたのである。
おはるさんは満面の笑みで迎える。
「いらっしゃい、はあーっ」と耳元に息を吹きかけていた。貧相な男は耳元が敏感なようで、にやっと笑ってよだれを垂らし、「見せてやろうか」と言った。
わたしや他の客がいる前で、男はカバンを開けた。すると、なかには封をしたままの札束がぎっしり入っていたのである。時が止まったような感覚だった。だが、おはるさんは素早かった。かばんのなかに手を突っ込んだかと思うと、札束をふたつ取って、「ありがと」とまた男の耳にふうふうと息を吹きかけたのである。
男は恍惚の表情になり、「シャンパンくれ」と言った。わたしは非常にばかばかしいものを見たという気持ちになり、そのまま高い勘定を払って店を出た。
結局、記事は書かなかった。だが、一度、行っただけでゲイバーと彼女について、多くのことを学んだ。
■電話でも自宅訪問でもない、驚きの取り立て
看板に会員制と書いてはあるが、金さえ払えば、ヤクザだろうと、詐欺師だろうと誰でも入れること。客として入れた以上は差別はしない。外国人でも金さえ払えば誰でも入ることができる。金の出所も気にしない。金がすべて。愛がすべてではない場所だ。もっとも、ゲイバーに限らず、高級水商売は金がすべて、である。
金がすべてだから、勘定をツケにして、払いが遅れたりしたら、それは地獄を見る。
おはるさんは金の取り立てが上手だ。彼女は電話で督促しない。実力行使である。しかも、取りに行くのは勤め先だ。金を払わなかった人物はゲイバーに行ったこと、金を払わなかったことが勤め先にばれるのである。
おはるさんは巧妙だ。取り立ての際は普段着ではなく、ウェディングドレスを着ていく。どぎつい化粧をして高下駄を履いていく。タクシーの運転手は唖然として乗車拒否するから公共交通機関で大企業を訪ねる。そして、出勤時間を狙って行く。
会社の受付前に立ち、受付係に「あたしの婚約者、呼んでちょうだい」と小声で言う。秘密めいた感じが出る。異変を感じた警備員が「お客さま、失礼ですが」と近寄ってきたら、耳元に息を吹きかけながら、そっと呟く。
「あなたの会社の腰ぬけ常務がいけないの。うちの払いをためたのよ。早く呼んできて、お金を払えって、言ってちょうだい」
警備員は上気した顔になり、ウェディングドレスのおはるさんを残し、腰抜けで間抜けな常務を呼びに行ったという。

■胃がん、コロナ禍を乗り越えて
1993年、38年間続いた自民党支配が終わり、8党派が連立して細川護熙政権が誕生した。総理の細川護熙が真っ先に打ち出したのが料亭政治の廃止だった。「政治家は料亭に行くな」である。永田町に近い赤坂の料亭は大きなダメージをこうむり、料亭街の衰退が始まった。
翌1994年、地域の再開発により、「くらぶはる」は閉店した。だが、転んでもすぐに立ち上がるのがおはるさんだ。彼女は半年もしないうちに、赤坂TBS前の現在の地に「くらぶニューはる」を開く。前の店の半分以下の大きさでグランドピアノを置くスペースはない。カウンターと15の客席がある店だ。従業員はカウンターに入ってサービスをする、しんちゃんただひとりである。「ニューはる」は飲み放題、カラオケ歌い放題で、ひとり1万円という大衆価格だ。大衆価格ではあるが、なんだかんだと名目をつけてオプション料金で、ぼったくりを続けている。むろん、チップももらっている。
1996年、おはるさんは胃がんになった。食べ物が喉を通らなくなり、検査をしたところ、胃がんとわかり、その日のうちに入院し、胃の5分の4を切除したのだった。退院した後、60kgあった体重が45kgにまで激減し、別人のようになったが、それでも「入院費を稼がなきゃ」と店に出た。リーマンショックはあまり関係なかったが、コロナ禍では2年間、休業せざるを得なかった。
2年の間、自宅で休んでいたわけではない。彼女は「シティホテルの部屋を貸し切りにして、出張サービスで稼いだ」のである。
■ハリソン・フォードもエリック・クラプトンも訪れる
時代は流れていく。
赤坂から料亭、ナイトクラブ、ゲイバーは消えていった。だが、彼女は時代にあらがい、ひとりで店を続けている。
「くらぶニューはる」が続いているのは顧客に支えられているからだろう。総理大臣、政治家、芸能人、宝塚の女優、スポーツ選手などが今もやってくる。海外のVIPもやってくる。おはるさんと付き合ったことのあるアラン・ドロンは亡くなってしまった。だが、ダイアナ・ロス、ハリソン・フォード、エリック・クラプトンは来日すれば必ず店にやってくる。わたし自身、狭い客席でおはるさんから息を吹きかけられているエリック・クラプトンを見た。日本武道館で「いとしのレイラ」「ワンダフル・トゥナイト」を演奏した後だったのだろう。
おはるさんはこれまで1万人以上の客からぼったくっているだろうけれど、いちばん忘れられない客は誰なのか。
彼女は真面目な顔でこう教えてくれた。
「みなさん、私にとってはありがたいお客さまです。お客さまはみんな同じ。誰がいちばんなんてことはないのよ。でも、お金は持っていなくちゃダメよ。ゲイは子どもを産めないから、誰も面倒を見てくれない。頼りになるのはお金だけ」

■忘れられない、田中角栄に頼まれたプレゼント
「田中角栄先生のことは忘れられない。とってもせっかちで、入ってきたかと思ったら、ウイスキーをパパッと飲んで、部下の先生方やお役人に指示して、仕事を済ませるの。だれだれに花を贈らなきゃならんとか……。心がやさしくて、とっても頭のいい先生でした。ロッキード事件で捕まった後でも元気いっぱいでね。そう、最後にいらしたのは亡くなる少し前、誕生日の前の日でした。

『田中先生、明日がお誕生日なんですって、プレゼントあげたいの。今夜、私をホテルに連れて行ってもいいわよ』
そう言ったら、聞こえないふりして、『おはる。辞書くれんか。寝る前に読んで勉強するんだ。オレは小学校しか出てないから勉強しないとついていけんのだ』
私、泣きそうになった。逮捕された後よ。二度と総理大臣にはならないとわかっていたけれど、政治家は勉強しなきゃいかん。勉強するから辞書をくれって。それで、私、次の日に砂防会館の事務所に広辞苑を届けました」
■84歳、赤坂と共に生きていく
おはるさんは84歳になった。それでも週に4日は店に出ている。朝礼は思い出した時だけやる。ぼったくる気持ちは薄れていない。越路吹雪、美空ひばりの歌を歌い、ビールを飲む。同伴にも付き合う。料亭に呼ばれたら向島まで出かけていく。招いた客は迎えの車を用意しなくてはならない。ウーバーではダメだ。黒塗りのハイヤーがおはるさんのお気に入りだから。仕事をしながら、月のうち、2日程度はボランティアで病院を訪ね、ガン患者に講演をしている。ボランティアだが、車代とチップはもらうことにしている。

「みなさん、ガンに負けるんじゃないわよ。私は抗ガン剤をラッパ飲みして、気合で吹き飛ばしたから、みんなもそうしてね。今はもう抗ガン剤はいらないの。私に必要なのは新鮮なコーガン(睾丸)よ」
彼女の講演はガン患者には人気がある。講演では「ニューはる」の名刺を配る。ガン患者のうち、何人かは店を訪ねてくる。ガン患者からも、当たり前のようにぼったくることにしている。84歳のおはるさんは元気だ。毎日、ぐっすり寝て、夜遅くまで働き、金儲けに精を出している。おはるさんは愛よりも金が好きだ。
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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。ビジネスインサイダーにて「一生に一度は見たい東京美術案内」を連載中。
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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)
