1985年の帝国ホテル(新潮社撮影)

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【写真】関東大震災にも耐えた帝国ホテル「ライト館」 現役時代の貴重な写真

当時を知る従業員たちの証言

第1回【「調理場にいたら関東大震災」「ベーブ・ルース夫人はお綺麗だった」…歴史の舞台「帝国ホテル」従業員たちが語る“あの日あの時の日本”】を読む

 現在も盛んに報じられている日本のホテル開業ラッシュ。2026年もラグジュアリーホテルを中心に開業が続いているが、やはり老舗も捨てがたいという向きは多いだろう。1890(明治23)年11月に開業した帝国ホテルも、そんな老舗の1軒である。

 充実した設備やホスピタリティなど、ホテルの魅力を示す要素は数多い。だが、一朝一夕で得られないものとは“逸話”である。そこで今回は、関東大震災や二・二六事件、進駐軍時代の帝国ホテルを、当時を知る従業員たちの貴重な証言で振り返ってみよう。

1985年の帝国ホテル(新潮社撮影)

(全2回の第2回:以下「週刊新潮」1985年3月14日号「ザ・帝国ホテル」を再編集しました。文中の役職や年齢等は掲載当時の41年前のものです)

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二・二六事件では鎮圧部隊の本部が

 ボーイとして1年間勤務した田足井重二、後の俳優・多々良純は、ロシアが生んだ不世出のバス歌手フョードル・シャリアピンや喜劇王チャールズ・チャップリンという世界の有名人を迎えるチャンスにも恵まれた。だが、彼の記憶に一番強く残っているのは、やはり二・二六事件(1936年)である。

「あの日は前の日から降り続いた雪のために家に帰れなくて、私は豪華な客室に泊まっていましたが、外が何となく騒がしいのでふと外を見下ろしたところ、ホールのところに120人ほどの武装した兵隊が立っていたんです。一瞬、足がすくみましたね」

 と多々良はいう。

「帝国ホテルには、鎮圧部隊の本部が置かれたんです。それでロビーに兵隊がゴロゴロしていて、宴会のボーイが兵隊の握り飯を運んでいました」

 というのは、その年、宴会係に配属されたばかりだった小宮孝茂(76)である。

「中国から汪兆銘(編集部注:中華民国の政治家、社史によると帝国ホテル来泊は1941年)がやってきたときも、500人くらいの大歓迎パーティーを開きましたが、出席者の3分の1が軍人で、ちょっと異様な光景でしたね。東条(英機)さんも軍刀さげて、さっそうと来てましたが」

ミズーリ号に向かう重光葵を見送って

 やがて戦局が進むにつれて酒も材料も欠乏するようになり、帝国ホテルといえども、贅沢は許されなくなった。

「鯨のハンバーグから食用ガエルやドジョウにいたるまで、本当にありとあらゆるものを料理しましたよ」

 と現料理長の村上信夫がいえば、パン工場のシェフをつとめる小林秀雄(66)も、

「戦時中は、ドイツ、イタリーの同盟国側の軍関係の宴会などがありましたが、そのころの一番のご馳走はオムレツでした。上海から一斗缶で送られてくる乾燥卵という卵の黄身の粉末で、10人前のオムレツが作れるんです。それから、ニョッキというイタリー料理に似せたものとして、ウドン粉の固まりを西洋風にアレンジして出したりしました」

 という。コーヒーと称して出されるものも、実際は、麦茶の濃いものにすぎなかった。そして、やがて敗戦。

「あのころのことで特に印象深いのは、重光葵外相でした」

 というのは、相変わらずVIPの客室係を続けていた竹谷年子である。

「ミズーリ号調印(編集部注:1945年9月2日の降伏文書調印)でホテルを出るという日、義足でいらっしゃいましたから、私たちでお洋服をお着せしてロビーまでお連れしたのですが、お出かけの前に3枚の色紙に和歌をしたためられ、そのうちの1枚を私に下さったのです」

「永らえて 甲斐ある命 今日の日を 御国の盾と 我ならましを」という和歌だった。

不評を買った進駐軍の支配人

 占領中の日本を牛耳ったのは、進駐軍のダグラス・マッカーサー元帥だったが、接収中の帝国ホテルの天皇は、進駐軍から支配人として送り込まれたジョゼフ・モーリスという歩兵中尉だった。

 モーリスは当時まだ22、3歳の若さだったが、「非常に剛直な、融通のきかない男で、いつも威張りちらしていましたよ」というのは、終戦の年に帝国ホテルに入社した早川喜彦アシスタントマネージャー(56)である。

「でっかい体をしているくせに神経質で、病的に几帳面な奴でした。ユニホームのボタンが磨いてあるか、爪は伸びていないかと、しょっちゅう並ばされて点検されましたが、それも面白半分にやるのです」

 そしてふた言目には「I don’t want to see you flesh, no more(もう君の姿を見たくない、たくさんだ)」と叫ぶ。つまり、クビだというわけである。

「モーリスの時代は、1日当たり1人はクビになってましたね。そのほか、表に行って穴を掘ったり、料理場の大掃除をする重労働とか、出勤停止とか、いろんな罰則がありまして、私もそういうのは4、5回やられました」

 と宴会係OBの小宮がいえば、早川も、「ある少将のタバコが2カートンなくなったというので、2日間もホテルに留めおかれたことがあった」という。

 まあ、それだけ従業員によるツマミ食いが横行していたわけで、「進駐軍の食料をかっぱらって食べるなんてのは当たり前だった」と小宮はいう。

ハリウッド映画化を断った「内幕本」

「モーリスは日本人に嫌われていただけではなく、進駐軍の連中にも好かれていませんでしたよ。自分より位の上の人にはペコペコして、部下を平気で踏みつぶす人でした」

 というのは、日系二世で当時モーリスの秘書役のような仕事もやり、のちにパレスホテルの料飲部長をつとめた中村孝(63)である。

 そのペコペコが功を奏したのか、モーリスは滞日中に大尉になったばかりでなく、キャンベル少将の娘(当時、極東裁判のウェッブ判事の秘書をしていた)と結婚して1951(昭和26)年に帰米したが、帰国後、自分の滞日体験記を『The Wise Bamboo』という本にまとめて出した。

 この本は小説仕立ての、なかなか気の利いた読み物だが、その中に一個所、気になる記述が出てくる。孔雀の間で毎週土曜に開いていたディナーパーティーで、あるとき、舞踏団の一員に加わっていたブーブー・シノザキという服を脱ぐダンスの踊り子が、約束に反して、それを実演してしまったというのである。

「いよいよダンスの終りが近づき、薄長い布を、ただ一枚だけをまとっているだけになった。その布が落ちれば、わたしもこの帝国ホテルにおさらばかと観念した」(服部達・訳、1954年出版の邦訳本『帝国ホテル』コスモポリタン社より)

 が、この瞬間、停電になって救われたというのだ。もしこの話が本当なら、ブーブー・シノザキは、帝国ホテルでその手のダンスを披露した唯一の踊り子ということになる。だが、そちら方面の古い関係者に尋ねても、誰もブーブーの名前は記憶していないし、中村孝も「あの本は嘘ばかり書いてある、どうでもいい本なんです」と言い切るのだ。

 後年、この読み物を映画にしたいとハリウッドから関係者が折衝に来たが、大丸徹三は断固としてことわったということである。

モンロー宿泊で大騒ぎ

 接収解除後第1号の宿泊客は、ヘッセル・ティルトマンという英紙の特派員だったといわれているが、この解放気分をいかにも象徴的に表した事件は、1954(昭和29)年に夫のジョー・ディマジオと来日したマリリン・モンローの宿泊だった。

「戦後いらした方の中では、何といってもマリリン・モンローさんでしたね」

 とVIP客室係の竹谷年子もいう。

「女優さんというよりも、物思いにふけったように静かに廊下を歩くしっとりとした方でした。244と245のスイートにお泊まりになりましたが、ひと目彼女を見ようという群衆で、すごかったですね。彼女がベランダに出て来たのを見ようとして、池に落っこちた人が何人もいたのですから」

 このあいだまで軍人たちの宿舎だったところに民間人が、しかも絶世の美女が降り立ったのだから、興奮するのも無理はない。これでやっと、帝国ホテルも、いくらか身近なものに思われるようになったのだった。

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 大地震が襲来したのは、まさにその時である――。第1回【「調理場にいたら関東大震災」「ベーブ・ルース夫人はお綺麗だった」…歴史の舞台「帝国ホテル」従業員たちが語る“あの日あの時の日本”】では、ライト館お披露目の日に発生した関東大震災などについて、従業員たちの貴重な証言を伝える。

デイリー新潮編集部