初戦ではベルギーに先制されながらも、鈴木隆行と稲本潤一のゴールで逆転。最終的には2−2で分けたが、初めて勝点を獲得する。さらにロシア戦では、相手のエース、アレクサンダー・モストボイの欠場もあり、稲本の連続ゴールで1−0と初勝利。この試合はフジテレビ系列が中継し、1964年東京五輪の女子バレー決勝に次ぎ、スポーツ中継では歴代2位の66.1%の視聴率を記録した。

 そして3戦目は「日本の選手たちは、1年中この時間に試合をして慣れている」とトルシエ監督が話した通り、大阪で15時半キックオフのチュニジア戦も2−0で快勝。日本は望外のGL首位通過を果たすのだった。

 だがラウンド(R)16のトルコ戦では、トルシエが奇策に出た。2トップをそれまでの柳沢敦、鈴木のコンビから、西澤明訓と三都主アレサンドロに変更。雨中の仙台で、トルコは12分にCKからウミト・ダバラが先制すると、手堅い守備へとシフトした。

 ところが追いかける立場の日本は、クロスバー直撃のシュートを放った三都主と大会2ゴールの稲本を前半で下げてしまい、チュニジア戦で得点した森島寛晃がプレーしたのもラスト5分間だけだった。日本は「開催国として最低限の目標」(中田英寿)には到達した。しかし、この日韓大会から4大会で同じR16の壁に跳ね返される運命を辿ることになる。
 
 一方韓国は前回オランダを指揮し、直接対決では0−5と叩かれた時の敵将フース・ヒディンクを招聘。初戦ではファン・ソンホンが先制し、ユ・サンチョルが追加点を挙げ、ポーランドを2−0で下して出場6度目でついに初勝利を挙げた。だがグループDは混戦模様を呈した。韓国はアメリカと分けて両国ともに勝点4で並び、最終戦は勝点3で3位につけるポルトガルとの対戦となった。

 ポルトガルは、1989年、1991年とU-20ワールドカップを連覇したルイス・フィーゴ、ルイ・コスタ、パオロ・ソウザらの黄金世代が円熟期を迎え、2年前のEUROでも準決勝で優勝国フランスと延長戦突入の熱戦を繰り広げ(1−2で惜敗)ていた。欧州予選ではオランダを競り落として本大会に進んできていたので、韓国は難しい状況に置かれていた。だがポルトガルは、27分にジョアン・ピント、66分にもベトと、早い時間に2人の退場者を出してしまう。この後韓国は、パク・チソンが浮き球を巧みに処理してゴールを奪い首位通過を決める。逆に優勝候補の一角と目されたポルトガルはGLで消えた。

 韓国は国中の熱狂と、なぜか相次ぐ優位な笛に後押しされて快進撃を続けた。日本が敗退した夜は、ベスト8をかけてイタリアと対戦。ヒディンクは「I’m still hugry!」と声を張り上げ鼓舞してチームを送り出す。

 主審はエクアドル人のバイロン・モレノだった。18分、クリスティン・ヴィエーリのヘッドで先制したイタリアは、その4分後に空中戦でフランチェスコ・トッティの肘が相手に入ったという判定で警告を受ける。ところが相手ペナルティエリア内で、後ろからシャツを掴まれ露骨にアレッサンドロ・デルピエロの顔面に肘打ちをしたキム・テヨンの行為にはお咎めなし。こうした流れで韓国は終了2分前にソル・ギヒョンが同点ゴールを叩き込み延長戦に突入する。

 そして103分、トッティがエリア内に侵入したところで倒れると、主審はイタリアにPKを与えるのではなく、トッティのシミュレーションとして2枚目のイエローを提示し退場を宣告。韓国は10人になったイタリアを攻め込み、終了3分前にアン・ジョンファンのヘディングで決着をつけた。

 モレノは帰国後エクアドルリーグでも判定に疑義が出て20試合の出場停止処分を受け、FIFAは翌2003年に日韓大会と合わせて調査に乗り出すが、判定に「規律違反はなかった」と表明。しかし2010年には、ヘロインの密輸が発覚しニューヨークで逮捕された。