町田康さん

 もどかしい、ずうっともどかしい。何故に話が通じないのか――。町田康さんの新作「朝鮮漂流」(新潮社)は、江戸後期の朝鮮に漂着した日本の武士たちの遭難記録に基づいた大部の小説だ。異国の者同士の隔靴搔痒(そうよう)極まるやりとりが、グルーブ感あふれる町田節でよみがえる。

 文政2(1819)年、薩摩藩士の安田義方ら25人を乗せた船が暴風雨にみまわれ、朝鮮の海岸に漂着する。〈とにかく国に帰れるようにしてください〉と望む安田にあれこれ誰何(すいか)してくる異国の官吏たちとのやりとりは漢文による筆談のみ。上陸を許されないまま、船の崩壊は刻一刻と進んでいく。

 町田さんは十数年前、安田の残した日記について書かれた本を読み、元の資料にあたった。「日本人と韓国人が英語の筆談でやりとりしているようなもので、話が通じなかったり、同じ話が繰り返されたり、行き違いが面白くて。日記に出てくる人物の内面を浮き上がらせるようにすれば、小説として面白く書けるかもしれないと思いました」

 朝鮮の官吏は入れ代わり立ち代わりやってきては、漂流の過程や、積み荷の中身などについて同じようなことを聴取する。何度も何度も。同僚たちが病に倒れるなか、一人で対応する安田は〈不快の感情がむらむらと湧いてきて、どうしてもこれを抑えることができない〉と思いながらも、武士としての礼節を保ちながら、漢文のやりとりを続け、消耗していく。

 安田のいらだちを現代に置き換えれば、生成AIとの対話で実感しているのではないか、と町田さんはこんなたとえをする。

 AIが〈それは太宰治の「藪(やぶ)の中」です〉とトンチンカンなことを言う。〈そりゃ違いますよ、それ太宰じゃなくて芥川龍之介じゃないですか?〉と返す。すると全く悪びれず、〈芥川の「藪の中」は……〉と話を進めようとする。

 「待て、と。まず謝れと。そんないらだちです。ラベルの『ボレロ』のメロディーではないですが、同じようないらだちが続くんだけど、その繰り返しのなかに生まれてくる何かがあるんじゃないかと思って書き進めていったんですね」

 朝鮮の側からしてみれば、異国船の漂着は国法によって処理せざるを得ない。ある種の外交儀礼として、酒を酌み交わしたり、漢詩を贈り合ったりもする。長引く交渉のなか、朝鮮にも様々な官吏がいることがわかる。自作の漢詩の添削を安田に求めてくる者、露骨に船中の物品を欲しがる者……。

 「安田の日記は報告書みたいなものですから、感情を排してフラットに書いている。それでも朝鮮の役人の地位が上に行くほど横柄で無能な感じが伝わってきたり、最初から交渉にあたっていた県の太守が安田と心を通わせあう様子が浮かびあがったりして、それは意外でしたね」

 難破船を前に遅々として進まぬ異文化交流は不条理コントを見ているかのよう。かしこまった漢文体の日記に新たな魅力を加えた本作は、昔から古典文学に興味を持ち、近年も口訳と銘打った「古事記」「太平記」を出している町田さんの「語り直し」文学の新たな到達点とも言える。

 「若い時に歌手をやっていたせいか、声が感じられる文章を意識していて。音声の言葉っていうのは声質や目くばせといった身体性が乗っかってきます。文書のやりとりだけだとなかなか伝わらないことも伝わる。文字文化と音声文化が交錯する場といった点でも、書いていて楽しかったですね」(野波健祐)=朝日新聞2026年4月8日掲載