北海道津別町で生まれた中山奏琉さんは、スポーツ万能で小学1年生から始めたソフトテニスで全国大会に出場するほどの実力を持っていた。学業も優秀だった彼は一浪後北海道大学に進学。
農家を営む両親のように農業に携わりたいと、農学部を目指して理系の道を選んだ。大学では音楽系のサークルに入り、作詞作曲やバンドでのベース演奏にも打ち込んでいた。
中山さんは大学に入学して間もない頃、右肩甲骨の下あたりに違和感を覚える。押すとわずかに痛む小さなしこりだったが、大きく気にすることはなかった。

夏休みに実家へ帰省した際、母親に勧められ札幌市内の病院を受診。さらに大きな病院での精密検査を経て、2023年10月、診察で告げられた言葉は「肉腫」。骨や筋肉、神経などに発生する悪性腫瘍、つまりがんだった。

担当の医師は、彼の肉腫は抗がん剤が効きづらいタイプと想定されると説明し、できるだけ早い切除を勧めた。この時点でのステージは3B。手術で腫瘍を取り除けるギリギリの状態だ。

手術が行われ、腫瘍を切除するため、腫瘍周辺だけでなく右半身の腹筋・脇腹の一部、背筋、さらに肋骨2〜3本も切除することになった。

約7時間に及んだ手術は無事成功。リハビリが始まった頃、病理検査の結果が出た。診断は「類上皮肉腫」。筋肉などの組織にできる、国内での年間発症者は30人にも満たないとされる極めて稀な肉腫で、発症のメカニズムは解明されておらず、10代から30代の男性に多いとされている。医師からは3か月ごとの経過観察を続けながら様子を見ていくと告げられ、1か月の入院を経て退院。

2023年12月、サークルの友人と再会した彼は、がんだったことと手術で全部取れたから今は何ともないということを話した。

3か月に一度の検査を受けながら大学生活を送る中、友人たちは彼を病人扱いしないことを暗黙のルールにしていた。それは、彼がブログに病状を率直に綴っており、友人たちはそこで近況を把握していたから。がんを宣告された日から書き続けていたそのブログには、恐怖や不安が正直な言葉で記されていた。

2024年11月、検査でがんの再発が告げられた。精密検査の結果、転移は全身の複数箇所に確認された。

類上皮肉腫は遠隔転移しやすいことも特徴の一つ。抗がん剤治療が提案されたが、この希少がんに対する抗がん剤の有効性は確立されていなかった。彼はブログに「生き延びたらラッキーだし死んだら死んだで仕方ないと思うことにします」と綴る。その言葉を目にした友人たちは、彼の前では決してそんな顔をしないと誓い合った。
中山さんの抗がん剤治療が始まった。副作用による発熱が続く中、治療に専念するため大学を休学することを決めた。

2024年12月、治療を始めて1か月。腫瘍は小さくなっていた。ブログには「生きられる可能性が出てきました」との記述。ゲームの新作への期待を綴り、「このメンタルのまま行けたらいいな」とも書いた。友人たちとの時間も楽しみ、花見や大学祭にも参加した。

しかしその翌年2025年7月、腫瘍が再び大きくなり始め「治ることを願いつつ治療を続けようと思います」とブログに記した。

2025年8月、息苦しさを感じ救急搬送。胸に血が溜まっているという。溜まった血は右肺を完全に押しつぶし、さらに心臓まで圧迫していた。医師は両親に「もし出血が止まらなかったら覚悟をしてください」と伝えた。

出血を止める手術が行われるも、出血箇所が多く完全には止血できなかった。「もうできる治療がありません」と医師は両親に告げた。

治療をやめて痛みを和らげる緩和ケアへの移行が決まり、残された時間が本人にも伝えられた。それは1週間ほど。

翌月、緩和ケア病棟へ移った。がん細胞による炎症が全身に広がりだるさや体の痛みを感じるようになっていたが、鎮痛剤によって痛みが抑えられている間は穏やかに過ごすことができた。友人たちは積極的に面会に訪れ、和菓子や漫画を持ってきた。ブログやSNSを通じてつながった見知らぬ人々とも交流。

1週間と言われていた余命は、気づけば1か月を過ぎていた。出血も奇跡的にほぼ収まり、食欲も戻り、2か月ぶりに歩けるようになったとブログに綴った。

ある夜、母親が病室を離れた隙に、彼はスマートフォンに手を伸ばした。画面にはこう打ち込まれていた。「多分そろそろ死ぬ」。

その4日後、友人たちのもとにSNSの通知が届いた。その投稿は、「グエー死んだンゴ」。実はその2日前、彼は亡くなっていた。

この投稿は、以前ネット上でこんなやり取りがあったことから生まれていた。「死ぬ直前にするツイートは決めてる?」という問いに、「グエー死んだンゴって予約ツイートする」と答えていたのだ。「グエー死んだンゴ」とは、失敗を冗談っぽく笑いに変えるときに使うネットスラング。自らの最期を感じたとき、予約投稿をしたと思われる。友人たちに向けた、彼なりの挨拶だった。

この投稿は3日で閲覧数1億を超えた。通夜の席で、高校の友人から知らされた両親はそこで初めて息子の投稿を目にした。

中山さんの投稿を見ていたネット上の仲間たちは、同じくネットスラングで「成仏してクレメンス」として冥福を祈った。さらに「香典代わりに寄付したので成仏してクレメンス」という声も広がり、彼が入院していた北海道がんセンターには2週間ほどで400万円以上の寄付が集まった。数多くの研究機関にも寄付が寄せられた。

22歳の青年が希少がんと闘いながら遺した8文字の投稿。それが未来のがん研究に一筋の光を差すことになれば、彼も喜ぶかもしれない。