膠着する「南イタリア戦線」と疲弊する兵士…「世界の終わり」と評されたオットーのビザンツ侵攻を一変させた、ビザンツ皇妃の「皇帝暗殺」

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ヨーロッパ随一の強国は、ひとりの男によって作り上げられた。その名は神聖ローマ帝国初代皇帝・オットー1世。欧州を席巻した苛烈な王の生涯は、戦いの軌跡だった。身内からの反乱にイタリア遠征、そして強敵ハンガリーとの戦争。彼はいかにして数多の勢力を下し、その地位を固めていったのか。

オットー1世の生涯を辿れば、中世ヨーロッパが見えてくる。ドイツの源流・神聖ローマ帝国の歴史を綴った『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』から一部抜粋・再編集してお届けする。

『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』連載第77回

『計画の後押しになったのは第一子の「早すぎる死」…ドイツを作った男「オットー大帝」を襲った終わりの見えない「身内の不幸」』より続く。

侵攻するも戦果なし

オットーはマクデブルク計画を実現させる傍ら、再びプーリアに侵攻した。リウトプランドがコンスタンティノープルから手ぶらで戻ってくる直前の10月のことである。

結果は芳しくない。この南イタリア遠征中に日食が起き、兵士たちは「世界の終わり」と慄いた。戦意が甚だしく下がったのも無理はない。

しかも翌969年にはオットーの南イタリア遠征を現地で支えてきたカプア・べネヴェント両公国のパンドゥルフ鉄頭公がビザンツの捕虜となってしまった。勢いづくビザンツ軍はカプアを40日間包囲する。

オットーは直ちにフランケン、ザクセン、シュヴァーベン、スポレートの軍勢を差し向ける。それによってたしかにビザンツ軍を撤退させることはできたが、大した成果ではなかった。

この間の一連の南イタリア遠征の成果らしい成果は唯一、ニケフォロス2世と手を組み暗躍していたあのアーダルベルトを、ついにイタリアから完全に追い出すことができたことぐらいである。

パンドゥルフ鉄頭公は依然としてビザンツにとらわれたままであった。

ところが969年末、事情が一変する。ビザンツ帝国での異変である。

稀代の悪女

しかし当時のビザンツ帝国はつくづく魑魅魍魎の世界である。

ニケフォロス2世が皇妃テオファノの手引きで寝所に忍び込んできた皇妃の愛人ヨハネス1世ツィミスケスにより暗殺されてしまったのだ。

皇妃テオファノは絶世の美女にして稀代の悪女であった。試しに巷間、ささやかれていた彼女の殺人譜を繙くと、次のようになる。

まず、最初の夫ロマノス2世の父コンスタンティヌス7世を毒殺、次に夫ロマノス2世を毒殺、そして今回の2人目の夫ニケフォロス2世暗殺の手引き、さらにはその下手人であり、かつ愛人であったヨハネス1世ツィミスケスの殺害等々。

話半分に聞いても身の毛のよだつところである。だが実際は、彼女が手掛けた悪行はニケフォロス2世暗殺の手引きだけであったらしい。後は後世の悪女伝説が紡ぎだしたものである(井上浩一『ビザンツ皇妃列伝』)。

そんな彼女も亡き夫の後を襲った愛人のツィミスケスの裏切りに遭い、小アジアの修道院に追放されてしまった。もっとも彼女はツィミスケスの失脚後、息子のバシレイオス2世が皇帝に即位すると皇太后としてビザンツ政界に返り咲いている。さながら百鬼夜行である。

それにしてもローマの娼婦政治といい、このビザンツの百鬼夜行といい、さすがにローマ、ビザンツという文化先進地域は政争も洗練され、かつ淫靡陰険残虐となっていくようだ。これに比べれば東フランクの内戦は単純朴訥に見え、実にわかりやすいというものだ。

新皇帝との和平条約

さて、クーデターで手にした皇帝位は無論、盤石なわけはない。それゆえビザンツの新皇帝ヨハネス1世ツィミスケスには南イタリア問題にいつまでも関わっている余裕などない。それより国内の安定支配が先決である。そしてブルガリアを占領しコンスタンティノープルをうかがうキエフ大公国の動向の方がオットーのそれよりよっぽど気がかりであった。さらに悪いことにこの頃ファーティマ朝がエジプトまで進出し、ビザンツのキリキア、アンティオキアが脅威にさらされていた。南イタリアの領有問題に拘泥している場合ではない。

ツィミスケスは捕えていたパンドゥルフ鉄頭公を解放し、オットーとの和睦の道を選ぶ。

和平条約の骨子は以下の通りであった。

・オットーの皇帝位の承認。

・オットーのカプア、べネヴェント、サレルモに対する宗主権の承認。

・オットー軍のプーリア、カラブリアからの撤退。

・オットー2世とツィミスケスの姪で当時12歳のテオファノとの縁談成立。

ここで一言注意。読者よ、オットー2世の花嫁となるテオファノと、かの悪女テオファノとを混同しないようにくれぐれも注意されたい!

ともあれ、和平条約を見る限り、オットーの全面勝利と言ってよい。

となると、そろそろイタリアを引き揚げる潮時である。なにしろ交渉がまとまった971年時点でオットーは5年間、故郷を留守にしているのだ。

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