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ベルギーを代表する法医学医のフィリップ・ボクソさんは、これまで6000体を超える検案、4000体以上の司法解剖を執刀してきました。そのなかには<一見すると不可解な死>もあるそうで……。そこで今回は、フィリップさんの著書『死体は語りだす:法医学医が読み解く「死者からのメッセージ」』から一部を抜粋し、実際に起きたミステリアスな事件をご紹介します。

倒れていた男性は「死体」のはずだった。周囲には蛆虫、返事もない。警察官が近づくと…

* * * * * * *

もしもし、パパ? 私よ

法医学医の日常の仕事には、死因の特定、死に第三者が絡んでいるかの確認、死亡時刻の推定に加え、死者が誰であるかの特定も含まれる。

死者の身元特定には、警察の協力のほか、死者の身分証や住所といったさまざまな情報が必要となる。多くの場合、死者の身元特定は問題なく進むが、かなりの困難にぶつかるケースも存在する。

例えば、身元を突き止めることができぬまま、3年以上も保冷庫に溺死体を保管していたことがある。必要な情報はすべて収集し、身元特定に役立つあらゆる検体を採取したのだが……。ついに検察も身元特定を諦め、身元不明者として埋葬する許可を出した。

さて、ジャックが娘のモーリーンと2人で暮らすようになったのは、妻のフランソワーズが10年以上も彼女を蝕んでいた「長くてつらい病」―癌という名称を避けるためによく使われている表現―で死去したからだ。末期は苦痛に苛まれていただけに、家族はフランソワーズの死を救いとして受け止めた。

夫婦にとってモーリーンは、思いがけず授かった子どもだった。2人は子どもが欲しかったのだが、フランソワーズは何度も流産し、医師もお手上げだった。夫婦は子どもを持つことを諦めていた。だが、閉経が始まったと思われたころにフランソワーズの妊娠が分かった。少々遅れて届いた天からの贈り物だが、夫婦は喜んでこれを受け取った。

フランソワーズが亡くなったのは夏の初め、学校が夏休みに入ってすぐのころだった。

葬儀の後、モーリーンは気分転換のために旅行に出ることにした。

目的地は決まっていない。バックパックに荷物を詰めながら、父親に「行き当たりばったりの旅になる」と告げた。モーリーンは大胆な娘であり、怖いもの知らずだった。暴漢に襲われることなどまったく心配していなかった。ヒッチハイクの常連であり、1人で、もしくは親友のサンドラと一緒に、フランスとイタリアの各地をヒッチハイクで回った経験の持ち主だった。今回、サンドラは都合が悪くて同行できない。仕方ない、モーリーンは1人で出発することにした。母親の死を乗り越えるために旅は必要だった。

モーリーンは自立心があって、健康的な17歳の少女だった。身長は158センチと、どちらかと言えば小柄で、体は細く(太らないように気を付けていた)、明るいブルネットの長い髪を束ねることなく、巻き毛を揺らしていた。青い目が活き活きと輝く、小さな可愛らしい顔の持ち主だ。将来は医者になりたいと考える高校生だった。

モーリーンが出発してから3週間が経ったが、連絡がないことにジャックは心配を募らせた。娘がこれほど長く音沙汰無しでいることは、これまで一度もなかったからだ。

多くの若者は休暇中の行動のすべて―飲食もこれに含まれる―をSNSにアップするのが常だが、モーリーンはSNSから距離を置いていた。友人の1人がネット上でのいじめの被害者となり、14歳で自殺未遂を起こしたことが大きな理由だ。ほかの友人と同様に、モーリーンはこの事件に大きな衝撃を受け、SNSを使うことは控えるべきだと確信した。

また、携帯電話を持っているが、自分から父親に電話をかけることはあっても、父親がかけてくる電話に出ることはほぼなかった。ジャックは、自分が娘の通信費を負担しているのに……とぼやいていた。10代の子どもを持つ親の多くは、ジャックと同じ経験をしている。娘や息子は1日中、携帯電話を握りしめて画面を見つめているのに、親からの電話にはなぜか出ない。「どうして出なかったの?」と問い詰めると「気がつかなかった」と返ってくる。どうやら若者のあいだには、特定の通知だけをスルーしてしまう現象があるようだ。

ジャックの不安

モーリーンはヒッチハイクの旅に出発してから数日後に、父親に電話をかけていた。フランスのリヨンからだった。「いつ帰るかはまだ分からない、何人かの若者と知り合いになったのでこれから行動をともにする」と言っていた。

ジャックの不安は高まった。

娘に電話しても、もはや呼び出し音も鳴らない。そこでメッセージアプリのアカウントに大量のメッセージを送った。1日に何度も。だが返事はない。

そこでジャックは警察に失踪届を出すことにした。当番の警察官が対応してくれた。

「家出ですか?」
「家出? 違います! フランスに旅行に出かけたのですが、2週間前から連絡が途絶えているのです」
「なるほど。今どきの若者は……、私の息子も……」

警察官は自身の息子について長々と愚痴ったが、娘を見つけ出すことだけを願っているジャックを安心させることはできなかった。

「娘さんを行方不明者としてBCSに登録しました。何か分かればすぐにお知らせします。それではまた!」

話はここまでです、お引き取りください、と言われたのも同然だった。

ジャックはBCSが何だか知らなかったが、BCSとやらが迅速に動いてくれるといいのだが、と期待する一方で、警察官の態度から考えて悲観的にならざるを得なかった。BCSはBulletin Central de Signalement(通報中央記録)の略であり、全国の警察組織にメッセージを流すためのアプリを指す。モーリーンの失踪は、このアプリを通じて捜査当局の各方面に周知された。

これは、思いがけず短期間で結果をもたらすことになる。

「娘さんの顔は……見ないほうがいいでしょう」

その日の朝、ジャックは自宅にいて、買い物に出かける準備をしていた。

災厄

さて、それよりも少し前、警官のメフディが職場に着くと、同僚たちがほっと安堵の表情を浮かべた。メフディは、全員が嫌がる使命を果たす適任者と見なされていたからだ。同僚たちが口を揃えて言うには、ご家族に悲報を告げる仕事を誰よりもうまくやってのけるのがメフディであった。メフディ本人はこの意見に賛同していなかったが、警察署では一番の若手、新人であり、皆が嫌がる仕事を押しつけられても断れなかった。

この日にメフディを待っていたのは、妻を亡くしたばかりの父親に娘の死亡を告げるというつらい使命であった。楽しい週末を過ごしたことは、メフディにとって幸いだった。神経をすり減らすきつい仕事に立ち向かうには、楽しい思い出のストックが必要だ。

玄関の呼び鈴が鳴ったとき、ジャックは外出のために服装を整え、手には買い物リストを持っていた。扉を開けると、制服を着たメフディが立っていた。傍らには警官見習いが控えている。

「こんにちは。ジャック・Xさんですか?」
「はい、そうです」

ジャックは2人の警官が娘のことでやって来たとは思いもよらず、警察の訪問を受けるようなことを自分がしでかしたのだろうか、と自問した。交通違反の罰金の未納? 駐車違反? 道路交通法は以前と比べて厳しくなっているので、走行中に気づかずに違反を犯している可能性はある。

「中に入ってもよろしいでしょうか?」
「外出するところでしたが、どうぞお入りください。コーヒーはいかがですか?」
「いえ、結構です。お気遣いは不要です。実は、まことに残念なお知らせがあるのです。どうぞ、お座りください」

ジャックは椅子に座った。この時点でも、警察官がこうしてやって来たのは娘の死を告げるためだとは夢にも思わなかった。モーリーンはフランスにいるはずだ。

告知は唐突だった。しかし、このような知らせを告げる好ましいやり方など存在しない。ショックの度合いがいくらか小さい伝え方というものはあるかもしれないが……。メフディは最大限に言葉を選びながら使命を果たした。だが、ジャックを苦しめる知らせは、これに留まらなかった。

ジャックは最初のうちは半信半疑で、自分は悪い夢を見ているのではないか、と思った。ほんの数秒で彼の人生は音を立てて崩壊した。自分の人生はもはや取り返しがつかないことになった、と悟った。妻の死という過酷な体験を経たのに、さらなる悲劇が待っていたとは。不公平ではないか。自分は何も悪事を働いたことがないのに。だが人生というものは不公正なのだ。人生は公平であって欲しいし、悪事は罰せられ、善行が報われる人生であって欲しい、と私たちは望むが、人生が公平であったことは一度もないのだ。自然災害が善人にも降りかかるように。

茫然自失し、自分を襲った災厄を完全には理解できぬまま、ジャックは娘の死の経緯を尋ねた。

メフディは「娘さんは殺害されました」と告げた。

娘は今どこに?

「殺された? モーリーンが? あんなに優しい子が殺されるなんてあり得ない。いったいなぜ? 犯人は?」

メフディは答えることができなかった。犯人はまだ見つかっていないからだ。

「どのように殺されたのですか?」とジャックは尋ねた。まだ娘の死が実感できなかったので、耳をふさぎたくなるような答えが返ってくることも恐れなかった。

「絞殺されました」とメフディは答えた。ジャックの頭に一つの疑念が浮かんだ。

「娘はレイプされたのですか?」

しかし、メフディは答えを持っていなかった。

「娘は今どこに?」

ジャックはモーリーンの遺体と対面したかった。

メフディは「遺体はご家族に引き渡されますが、ご覧にならないほうがよいでしょう。すでに腐敗していますから」とだけ告げた。

娘は死んだ、殺された、しかも死からすでにかなりの時間が経っている、と立て続けに知らされるなんてあんまりだ。

メフディによると、モーリーンは10日前に亡くなった。それ以前に娘に電話をかけるべきだった、しつこいくらいに電話すべきだった、連絡が取れるまで粘るべきだった、とジャックは悔やんだ。

「いつ、娘の顔を見ることができますか?」

「娘さんの棺をご覧になる、という意味ですか?」とメフディは聞き返した。遺体が腐敗していることを告げたのだが、父親は理解しているだろうか、と危ぶんだからだ。

「今日の午後です。トゥルネーから到着します」
「トゥルネー? でも、娘はフランスにいたのですよ。ベルギー国内ではなく」
「私が知っているのは、ご遺体を納めた棺がトゥルネーから到着する、ということだけです。それ以上の事情は存じません。私がご遺体を発見したわけではないので」

葬儀後にかかってきた1本の電話

葬儀社でジャックは棺を選んだ。妻のフランソワーズを納めたのと同じ棺だ。モーリーンは母親の傍らに葬ろう。墓穴には1人分の余裕があり、ジャックは自分が永遠の眠りにつく場所だと考えていたが、モーリーンに譲ることにした。

葬儀ミサには大勢の人が参列した。陽気で人生の喜びに満ちたモーリーンは、多くの人に愛されていた。司祭や親しい人による故人を称えるスピーチは、教会にあふれかえる会葬者たちの心を揺り動かした。

夕方、ジャックは以前にも増して淋しくなった自宅に戻った。

テレビの前に座り、ニュース番組にチャンネルを合わせると、生者たちの世界の最新の出来事が映し出されていた。妻の葬儀でも着た黒いスーツを脱ぐ気力もなかった。

すると、電話が鳴った。

ジャックはまだ固定電話―若者たちにとっては古代の遺物―を持っていた。ジャックは椅子から立ち上がるのを億劫に思い、電話を無視しようと決めた。ここ数日、あまりにも目まぐるしかったので、今は静かにしていたかった。彼の願いが聞き入れられたのか、電話の呼び出し音は鳴り止んだ。

数秒後、電話はまた鳴り出した。ジャックは意を決して、電話に出ることにした。出なければ、この電話はいつまでも鳴り続けるだろうから。

ジャックは立ち上がり、やや苛ついて受話器を取った。

「もしもし?」
「もしもし、パパ? 私、戻ったわ。迎えに来てくれる? 駅で待っているわ」

モーリーンであった。

モーリーンは生きていた

モーリーンは生きていたのだ。

ジャックはどれほど驚いたことか。心臓に持病を抱えていないのは幸いだった。


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彼は床に尻もちをつき、激しく泣いた。娘は何が起こっているのかさっぱり分からず、当惑した。娘の死を悼む涙を流し終えていなかったジャックは、娘が生きていることを知って泣いたのだ。

ジャックは駅まで車を走らせ、モーリーンを家に連れて帰ると、事情を説明した。

モーリーンは旅に出て数日後に、携帯を壊してしまった。そのために、父親が電話をかけても通じなかったのだ。

ジャックはその日のうちに、メフディに電話した。メフディは、何か困ったことがあった場合に、と電話番号をジャックに伝えていたのだ。娘の生還は困り事ではなかったが、警察に知らせる必要がある。

メフディは当惑して「では、埋葬されたのは誰なんでしょう?」と言った。

まさに、核心を突く質問であった。

この事件は警察の失態として話題になり、地方紙の第一面を飾った。テレビのクルーもやって来て、モーリーンとジャックにインタビューした。

死者の身元特定が間違っていたことは、親子2人にとって幸いだった。ジャックは心の優しい人だったので、誰も恨んだりはせず、今回の騒動のいい面だけを心に留めることにした。失ったと思っていた娘と再会できた幸せは、ほんの少し前に妻の死がもたらした苦しみを和らげてくれたからだ。

「遺体の顔」だけで判断してはいけない

「もしもし、先生ですか? 実は、トラブルを一つ抱えているのです」

電話をかけてきた予審判事はこのように会話を始め、私の協力を求めた。

先に解剖した法医学医は「モーリーンの遺体である」と誤った判定を下したので、すべてを一からやり直す必要がある。問題の遺体は掘り返され、私が改めて解剖を行なった。

女性の遺体であり、司法解剖の報告書に記載されていた背丈や体重に間違いはなかった。

観察結果にも誤りはないし、年齢推定も問題ない。要するに、解剖の仕事そのものには問題はなかったのだ。

問題は、身元特定をやや早まったことである。

腐敗のために、外見から身元を特定するのが困難だったのは本当だ。特に顔の腐敗はかなり進行していた。ただ、いずれにせよ、私はこれまでの経験により、外見から身元を特定することは危ういと知っている。

例えば……ある女性が息子の遺体の確認にやって来た。私は、彼女の息子と推定される遺体を見せたが、彼女は息子だと認めなかった。私は少々驚いた。この遺体からは息子の身分証が見つかったし、顔も息子の顔と同じだと思われたからだ。

遺体にはタトゥーが一つ入っていたので、私は女性に「息子さんの体にはタトゥーがありませんか?」と尋ねた。右腕にイルカのタトゥーがある、との答えが返ってきた。遺体のタトゥーとぴったり一致する。私がタトゥーを彼女に見せたところ、「これはイルカじゃなくて魚のタトゥーでしょ」と言い、遺体が息子だと認めようとしなかった。

私はDNA検査の実行を余儀なくされ、その結果、彼女の息子であることが明白となった。だが、それでも母親は納得しなかった。息子の死を認めることはあまりにもつらいので、事実を受け入れることができなかったのだ。

これとは真逆の例もある。ある女性が娘の遺体を確認するためにやって来た。申し訳ないことに、引き出しの名札が間違っていて、私が引き出したのは若い男性の遺体だった。しかし、女性は気が動転していたのか、「間違いなく私の娘です」と述べた……。

モーリーンと間違えられて葬られた少女の遺体は腐敗が進みすぎて、指紋を検出することは不可能だった。

この段階で可能な、そして最大限有効な方策は、歯科診療記録との照合とDNA検査である。この二つは実行された。その日のうちに歯科医がやって来て、遺体の歯の状態を記録した。私はDNA検査のための検体を採取した。

数日後、歯科診療記録によって遺体の身元は特定された。

当たり前であるが、DNAも一致した。

※本稿は、『死体は語りだす:法医学医が読み解く「死者からのメッセージ」』(三笠書房)の一部を再編集したものです。