浅草のど真ん中に「40年続く不法占拠」があった。昭和の“義理人情”で残されたアートは今夏、見納め
この当時の詳しい資料は、商栄会と台東区とのどちらにも残っていない。店主らは商栄会の建物を自費で建設し、その場所での営業についても「区の許可済」と解釈し、数十年にわたって伝法院の隣で商売を継続。これが後年に波紋を産むこととなった。
内山元区長が逝去した2年後の2014年頃から、台東区では商栄会の不法占有状態についての協議を開始。店主らに店舗撤去などを通告するが、商栄会側は応じなかった。その後も交渉は続き、2020年5月には区側から全店舗あてに、同年6月末までの建物撤去と立ち退きを求める書面が送られたが、ここでも商栄会は応えていない。
2022年1月には、台東区が32店舗の所有者29人を相手に東京地裁へ提訴し、店舗の撤去と道路占有料の支払いを求めた。その後も司法を交えた話し合いは続き、2025年12月24日に東京地裁で和解が成立。2026年7月31日までに立ち退くことと、占有料に相当する損害金として、商栄会側が共同で計800万円を支払うことが決まった。
この結果について、服部征夫台東区長は「区民の財産が回復される」「判決でなく和解解決が図られたことは、双方にとってより良い結果」といった趣旨のコメントをしている。対して商栄会の西林宏章会長は「われわれは違法だとは全く思っていない」と発言。騒動が一応の決着を見たとはいえ、商栄会と行政側の溝が完全に埋まったとも言い切れない状態である。
◆商栄会ができたのは浅草の「低迷期」
住民/行政の対立を象徴するような場所となってしまった、浅草伝法院通り商栄会。しかし登場した時代背景に着目すると、現在ほど法執行が厳格でなかった時代ゆえの、むしろ「街や行政に求められて商栄会が誕生した」成立経緯も垣間見える。
現在の商栄会がある場所では先に述べたとおり、1970年代の区画整理より以前から露天商達の営みがあった。これは太平洋戦争時の空襲で荒廃した浅草一帯の復興・美化に貢献した人達や、空襲で自分の店を失った人達のため、浅草寺が境内近くの土地にひとり1軒ずつ出店許可したのが始まりだそうだ。現在でこそ観光客向け・インバウンド向けの色が濃い浅草の商店群だが、成り立ちの当初は戦災復興や住民互助の意味合いが強かったと思われる。
しかし、日本が荒んだ戦後期を脱却して高度経済成長へ突入していくなか、逆に浅草地域は右肩下がりの衰退期へ迷い込んでしまう。当時は都心部の西側で渋谷・新宿・池袋などのターミナル駅が急成長。そのため23区内の居住人口も東から西へと移動し、多くの若者達が都心西側へ遊びに行くのをよそに、浅草・上野・両国といった下町エリアは求心力を失っていたのだ。
「その後、盛り場は日比谷や銀座に分散し、昭和33年の売春防止法の施行が浅草にとって大打撃となり、新宿や渋谷など新しい繁華街にヤング層を中心に流れていくことになる。昭和50年代になると冒頭にわが国最古の常設映画館電気館が閉じ、浅草六区の興行街がぐんと縮小されていく。訪れる観光客もほとんどが浅草寺参詣と仲見世中心の年寄りで、それも外国人が目立ってふえてくる。」(中田和昭『写真で歩く 浅草の昭和 残像の人情時代』彩流社(2009年) 岡井耀毅による序文より抜粋 ※漢数字は読みやすさを考慮してアラビア数字に変更)
昭和中期、テレビという新しい娯楽が一般家庭へ急速に普及していくなか、旧来の興行を中心とした浅草の街並みは「古臭い」と見なされるようになっていた。また、現在でこそ和やかな水辺空間となっている浅草近くの隅田川沿いも、かつてはいわゆる「カミソリ堤防」で川と地域が隔絶され、加えて工場排水・生活排水汚染でさらに浅草の印象を悪化させていた。初詣や三社祭のような行事を除けば浅草には人通りもまばらな、令和の現在からすれば信じられないように寂しい時期もあったのである。

