岡田美里「父との関係が壊れた母が、子ども3人を置いて家を出たのは、私が中3の時。自分勝手で謝罪もない、母の介護はしたくないと思っていたのに、突然同居が決まり」【2025年下半期BEST】
2025年下半期(7月〜12月)に『婦人公論.jp』で大きな反響を得た記事から、今あらためて読み直したい1本をお届けします。(初公開日:2025年10月13日)********昨年、92歳の母を見送った岡田美里さん。老後の世話はしたくないと思っていた母を引き取り、孤軍奮闘した日々と、長年のわだかまりを手放すことができた理由を語りました。(構成:丸山あかね 撮影:洞澤佐智子)
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突如始まった同居、勇気も自信もなく
母・靜子は2024年の3月に92歳で旅立ちました。1年以上経った今、過ぎてしまえば何もかもがかけがえのない思い出だと言えます。でも、私には母と対峙するために越えなければならない葛藤があったのです。
父(故E・H・エリックさん)との関係が壊れ、母が私たち三姉妹を置いて家を出たのは、49年前、私が中学3年生のとき。姉は高校卒業間近で、妹はまだ小学6年生でした。
母は華やかで明るい人でしたが、自分勝手なところもあって。家を出るとき、せめて私たち娘に、「こんなことになってごめんね」と言ってくれていたら、ずいぶんと救われたでしょうね。でも、実際は何も告げずにいなくなってしまって。「ちゃんと食べてる?」などと気遣ってくれることもあまりありませんでした。
時折母と会う機会はありましたが、とてもドライな関係。なかでも私が長女を出産したときのことが印象的です。母は私が病院から自宅へ戻った頃にふらっと現れ、孫を嬉しそうに抱いたあとは手伝ってくれるというより《ゲスト》という様子。私は「そういう感じなんだ」とひどく落胆したのを覚えています。
そうした小さな違和感やわだかまりが澱のように溜まっていたのでしょう。いつしか母の老後の世話はしたくない、と考えるようになっていました。
一方、妹は母と暮らすことに憧れていたようで、80代で一人暮らしをしていた母を妹夫婦と姪夫婦が住んでいる家に呼び寄せたのです。
昔から「私のモノは私のモノ、あなたのモノも私のモノ」というタイプの母でしたから、いかにも波瀾含みでしたが、気丈な妹だから大丈夫だろうと、私は内心「ラッキー!」とも思っていたのです。
ところがある日、妹から連絡が入り、「自己中心的すぎるママとは暮らせない! 今すぐ引き取ってほしい」と悲痛な声で頼まれました。母の譲らない性格のせいでストレスが限界に達したのでしょう。
母は、お世話してくれるなら誰でもいいと、あっけらかんとしているようでしたが、私は一緒に暮らす勇気も自信もありませんでした。でも、そのときは嫌と言える雰囲気ではなくて……。
結局のところ、私が車で迎えに行き、その日のうちに母は身の回りの荷物と一緒にわが家へ転がり込んできたのです。突如として40年以上も離れて暮らしていた母との同居が始まったのは、2018年。母はまだまだ元気な86歳、私が57歳のときのことでした。
東京の家を片づけて山梨に引っ越したわけ
当時、私は2度の離婚後、懸命に働きながら一人暮らしをしていました。娘たちが独立したあとに移り住んだのは、都内の一軒家。そこは、私が料理や手芸を教える「アトリエミリミリ」のスタッフや生徒さんが集うサロンでもありました。
アトリエには笑顔があふれ、幼馴染みで交際歴10年のパートナーとの関係も良好、人生のゴールデンタイムを満喫中だったのです。
そこへ母が現れ、たちまち私のリズムが崩れてしまいました。リビングにあったお気に入りのハンス・J・ウェグナーのデイベッドを母に提供したのですが、お教室の時間帯にそこでテレビを観ていられると困ってしまうわけです。
母が近くの温泉スパへ行くと言ってくれたのはよかったのですが、私が送迎バスの乗り場まで車で送り迎えをするのは疲れるなぁ、と溜息。一方でバス停のベンチにちんまり座っている母が可哀想で、このままではいけないと思ったり……。
そうこうしているうちに、母が膝が痛いと言うので、検査に行きました。その結果、パーキンソン病であることが判明したのです。咄嗟に思い浮かんだのは、同じ病気で車いす生活を送っていた父のことでした。
母も車いす生活になる。そうなると、段差が多く、お風呂が2階にある今の家での生活は無理です。バリアフリーのマンションへの引っ越しも考えましたが、新しい場所に馴染むまで母に負担がかかるし、敷金・礼金も必要だし、味気ない間取りの家に暮らすのは気乗りしなくて……。
姉はハワイ在住で、妹は孫が生まれてそれどころではない。私がどうにかするしかないの? と、本当に困惑しました。
何かいい手はないかと考えているときに、ふと思い出したのが、所有していた山梨の別荘のこと。昔子どもと行って以来、すっかり忘れていたのですが、そこならバリアフリーだし家賃もかかりません。20年以上、風を通していなかった建物は傷んでいましたが、少し手を入れれば暮らせるとわかりました。
でも、迷いがあったので、山梨の西湖(さいこ)のほとりで素敵なカフェを経営していた大好きな先輩女性に、どうしたらいいのかわからないと相談したのです。
そのとき、「お母さんの介護をしなかったら絶対に後悔するわよ」と言われたことが心に響きました。さらに占いにも頼ろうと方位鑑定のサイトで調べたら、私も母も山梨の方角は吉。これはもう抗えないな、と。(笑)
気がかりだったアトリエは、生徒さんに事情を説明して閉じることに。遠距離恋愛になるパートナーは「お母さんのことを優先するのは当たり前じゃないか」と言ってくれて、ありがたかったです。
東京の家を片づけて、仕事を全部辞め、2つのアトリエを泣く泣く閉じての覚悟の移住。でも、そのとき本当に嫌だったのは――冷たい娘と思われるかもしれませんが、母を介護することだったんです。母に「別荘に引っ越すからね」と伝えると、「あら、そう」。ねぎらいの言葉はありませんでした。
<後編につづく>
