歴史の行く末をリードするものとは──戸谷洋志さんと読む『三大哲学書』#4【別冊NHK100分de名著】
「三大哲学書」を戸谷洋志さんが解説 #4
「真実」はどこにあるのか? 「共同体」が成立する条件とは? 私たちを覆う「不安」の正体とは──?
哲学史上「最難解」とされる三つの古典、カントの『純粋理性批判』、ヘーゲル『精神現象学』、ハイデガー『存在と時間』。
「三大哲学書」と呼ばれ、哲学史上「最難解」と評されるこの3冊を、その概要、執筆の時代背景、重要概念、思想の押さえるべきポイントを厳選して解説する『別冊NHK100分de名著 集中講義 三大哲学書』が発売となりました。
今回は本書より、ヘーゲルが生きた時代と『精神現象学』の問題意識についての解説をご紹介します。(第4回/全5回)
ヘーゲルが生きた時代
ヘーゲルが生きた一八世紀後半から一九世紀初めのドイツは、産業革命やフランス革命など、ヨーロッパの歴史が大きく変動した時代でした。しかしそのさなかにおいて、彼の故郷であるドイツ──当時は神聖ローマ帝国と呼ばれていました──は、近代化に立ち遅れていました。
当時、イギリスやフランスなど、西洋の他の強国は、国民国家としての統一を図り、成熟した中産階級を中心とする市民社会を形成していました。それに対して、ドイツは依然として近代的な国民国家の体をなしていなかったのです。
ドイツには、約三〇〇もの小さな領邦が存在していました。それらはいずれも絶対君主によって支配され、厳しい身分制によって固定された、前近代的な封建制度が敷かれていました。領主のほとんどは、ドイツ全体のために貢献しようとする意志を持たず、ただ自らの私的な利害に基づいて、近隣地域との国境争いを行うなど、自分のエゴイズムに従っているだけでした。
西洋の他の強国と同様に、ドイツでも重商主義的経済が行われるようになりました。重商主義とは、国家が貿易を手厚く保護する経済政策です。当然のことながら、そのためには国家が強い力を発揮しなければなりません。しかし、バラバラな利害関係を持つ領主たちが足並みをそろえることなどできるはずもなく、経済政策は中途半端なものでした。結果として、経済の面でもドイツは西洋の他の強国から遅れをとることになったのです。
こうした環境下に生まれたヘーゲルは、学生時代に、二つの衝撃的な出来事と遭遇します。
一つは、カントの哲学です。第1講でも述べた通り、カントは、普遍的な理性に基づいた批判によってこそ、客観的な真実が判断できる、と考えていました。彼にとって、人間は誰であっても理性を持つのであり、権力者だけが真実を判断する権利を独占することは許されません。これは、当時のドイツでは自明とされていた、絶対君主制や封建制への決定的な反論でした。
そしてもう一つは、隣国で起こったフランス革命です。それは、フランスの絶対王政を倒すための市民による闘いであり、あたかも、カントの普遍的な理性への信頼が、現実の歴史のなかで実現されたかのような出来事でした。
カントの哲学はあくまでも理論的なものです。それはいわば、頭のなかだけで考えられた、抽象的な思考の産物です。しかし理性は、だからといって現実に対して何の働きかけもしないものではありません。むしろそれは、歴史のなかで実現されていくのであり、歴史の行く末をリードするものでもある。ヘーゲルはそのように考えました。
カントにとって理性と歴史の関係は、必ずしも重要な問題ではありませんでしたが、ヘーゲルにとっては、まさにそれこそが哲学によって解明されるべき大問題だったのです。そして、このような問題意識のもとで書かれた著作こそ、『精神現象学』に他なりません。
バラバラになっている人々は、どのようにして、一つの共同体へと統合されていくのか。人々が争い合うことなく、かといって権力者によって強制されることもなく、自由に共同体を形成していくことは、可能なのだろうか。それが共同体をめぐるヘーゲルの問いなのです。
本書「別冊NHK100分de名著 集中講義 三大哲学書 カント『純粋理性批判』 ヘーゲル『精神現象学』ハイデガー『存在と時間』」では、
第0講 なぜ今「三大哲学書」を読むのか
第1講 カント『純粋理性批判』──真実とは何か
第2講 ヘーゲル『精神現象学』──共同体とは何か
第3講 ハイデガー『存在と時間』──不安とはなにか
という4つの講義を通して、不朽の名著から、現代が直面する問題の本質を読み解いていきます。
※第5回は1月9日に公開予定です。
■別冊NHK100分de名著 集中講義 三大哲学書 カント『純粋理性批判』 ヘーゲル『精神現象学』ハイデガー『存在と時間』(戸谷洋志 著)より抜粋
■脚注、図版、写真、ルビは権利などの関係上、記事から割愛しております。詳しくは書籍をご覧ください。
戸谷洋志(とや・ひろし)
哲学者、立命館大学大学院准教授。1988年、東京都生まれ。法政大学文学部哲学科卒業後、大阪大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。ドイツ現代思想研究に起点を置いて、社会におけるテクノロジーをめぐる倫理のあり方を探求する傍ら、「哲学カフェ」の実践などを通じて、社会に開かれた対話の場を提案している。著書に『ハンス・ヨナスの哲学』(角川ソフィア文庫)、『ハンス・ヨナス 未来への責任 やがて来たる子どもたちのための倫理学』(慶應義塾大学出版会)、『哲学のはじまり』(NHK出版)、『メタバースの哲学』(講談社)、『責任と物語』(春秋社)、『詭弁と論破 対立を生みだす仕組みを哲学する』(朝日新書)など。2015年「原子力をめぐる哲学 ドイツ現代思想を中心に」で第31回暁烏敏賞受賞。
※全て刊行当時の情報です。
