(インタビュー)

村井:音楽出版社の仕事というのは、ライブで得られる収入以外に一番重大な収入だという認識を持っていたわけですね。だから、音楽出版社という仕事はしたいなと、作曲し始めた頃からずっと思っていたんです。

田家:アルファミュージックの柱が二つあって、一つは作家の自由な発想で音楽を作る。もう一つは国際的な音楽ビジネスをやる。その二つは、パリに行かれた時にはもう考えていたんですね。

村井:その通りです。

田家:でも、それを個人でやるというケースは当時の日本には無かったわけで大変だったんじゃないですか?

村井:そうですね、でも最初から運よく「My Way」が当たったりしましたし、最初のアーティストは赤い鳥ですぐ売れてきたり。最初の作家もユーミンですからね。ユーミンが売れるまで3,4年かかっていますけど、とにかく最初から上手くいったんです。上手くいかなきゃ潰れちゃうんですけど(笑)。

田家:スローガンのWE BELIEVE IN MUSICは、当時からあったんですか?

村井:1970年か1971年にはその標語を使ってましたね。その頃、アルファはスクリーン・ジェムズ・コロンビアというアメリカのキャロル・キングなどをやっているところと提携したんです。そこにマック・デイヴィスというエルヴィス・プレスリーの曲を書いている作詞家がいて、その人が「I BELIEVE IN MUSIC」という曲を書いたんですよ。それを聞いて、こりゃいいなと思って標語にしたんです。

田家:今話に出た赤い鳥が最初のミュージシャンで、1969年のライトミュージックコンテストで優勝したけどプロにはなりたくないと言って。それに対して村井さんが何度もプロになったら? と仰ったという話があります。ポルシェで後藤さんの自宅に行かれたというのも実話ですよね? その時は彼らが売れるだろうと思われていたんですか?

村井:ヒットするとは思ってないんです。この人たちは優れたコーラスグループで、日本の中で一番いいコーラスグループだと思うから、なんとかこの人たちを世に出したいという考えですよ。

田家:ロンドンで赤い鳥がプロになるのを賛成か伺う時に、メンバーに目を閉じて挙手させて多数決を採った。村井さんが「3人いるから君たちはプロになるんだ」と仰ったんですよね?

村井:本当に覚えてないですね。本当の話かなって今になって思うんですけど(笑)。でも説得したことは確かですよ、ロンドンの中華料理屋で「あなたたちくらい上手く歌える人はいないんだから是非やってみたらいいと思う」という話をしたのは覚えてます。でも、多数決の話はなんか伝説みたいだ(笑)。

田家:「翼をください」はシングルでリリースされましたが、アルバムは英語で、というのはどういう目算だったんですか?

村井:最初から外国で売ってやろうと思っていたんですよ。ですから、ロンドン録音の『Fly with Red birds』はイギリス人の友人のプロデューサーにやってもらって、当時ヒット作が多かったトニー・マコーレーという方もオリジナル曲を提供してくれて。どれかの曲、ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」かな? それはイギリスでシングル発売になってますね。残念ながら大きなヒットにはならなかったけど。アルファは、第一弾の赤い鳥、それから続いた「須磨の嵐」という前衛邦楽をやるんですけど、最初から海外市場を意識してずっとやり続けていたんです。それの積み重ねの極まったものがYMOのヒットになるわけです。

田家:先ほど名前が出た山上路夫さんとはどんなお話をされていたんですか?

村井:あまり作曲家、作詞家、あるいは作品というのが重要視されていない気がしていたんです。僕たちが子供の頃から聞いていた欧米の曲って色々な人が歌っていて。例えば「ナイト・アンド・デイ」なら、フランク・シナトラが歌っているけど、フランク・シナトラの「ナイト・アンド・デイ」とは呼ばずに、コール・ポーターの「ナイト・アンド・デイ」っていうわけですよ(笑)。だから村井邦彦・山上路夫の書いたなんとかっていう曲まで持っていきたいもんだね。じゃあ自分たちで音楽出版社作らないといけないんじゃないかな、というところから始まりました。