村井邦彦とともにアルファミュージックの創設期を振り返る
田家:今仰った川添浩史さん、小説の中では紫郎さんという名前ですが、彼がパリに留学したのが1934年なんですね。川添親子がもしいなかったら、アルファミュージックは誕生していなかったと言えますか?
村井:言えますね。まず、僕が初めて外国に行ったのが1969年のパリなんですが、その時に川添浩史さんのお友達のエディ・バークレーというレコード会社の社長のところで仕事をしたんです。そこの会社から「My Way」という曲の音楽著作権を買ったんです。これがアルファの最初の音楽著作権ですからね。その後、1970年には川添浩史さんは亡くなってしまう。もし彼がご存命だったら、たぶんその後も一緒に仕事したと思うんです。レコーディングスタジオで、フランスの技術を使って日本で音源を作れないかということを、亡くなる寸前まで相談していたんです。
村井:とにかく、それまで行く機会がなかったんですけど、彼から聞いてる話や本を読んでパリに興味はありましたから、これはいい機会だからぜひ行ってやれと思って。当時は作曲家として売れっ子でしたから忙しかったけど、全部の仕事を断って2ヶ月くらいパリで遊んでたわけですね。その最中に山上路夫さんと一緒に音楽出版社を作りたいという相談もしていたので、「My Way」の権利を取得したり。アルファミュージックっていう名前をつけたのもパリですよ。エディ・バークレーと契約するのに、会社の名前がないと困るから、なんでもいいから会社の名前をつけてくれってことで。川添象郎と相談して、アルファミュージックと名付けて契約したんです。
花の世界 / 加橋かつみ
(スタジオ)
田家:加橋かつみさんのソロデビューアルバム『パリ1969』の1曲目で、詞が加橋かつみさん、曲が村井邦彦さん。この曲を書いているということで、パリに来ないかとプロデューサーの川添象郎さんから誘われてパリに行って色々な事が起こって、アルファミュージックが始まりました。音楽出版社という会社の在り方は、今でもそんなに誰もが知っているものではないかもしれません。出版社というと本や雑誌の出版を思い浮かべたりする。でも渡辺音楽出版とかフジパシフィックミュージックとか色々な会社があります。著作権を管理する出版会社で、アルファミュージックも最初は音楽出版社として始まって、作家契約の第一号がユーミンだった。パリで村井さんに音楽出版をやらないかと持ち掛けたバークレー・レコードの社長エディ・バークレーさん。川添浩史さんのお友達という事で話が来たわけですね。
バークレー・レコードは、シャルル・アズナヴールとかダリダとかフランスの音楽会社では老舗で、重鎮のような方がバークレーさんです。そのときに権利を買った4曲のうちに、フランク・シナトラが歌って大ヒットとなった「My Way」があった。作家契約の第一号のユーミンの前に、アルファミュージックがアーティスト契約をしたグループがいた、それが赤い鳥でした。つまり、歴史から言うとユーミンの前に赤い鳥があった。赤い鳥は1969年のライトミュージックコンテストで1位。2位がオフコース、3位には入らなかったけれでもチューリップの前身が入賞しました。赤い鳥はそのコンテストで、「私たちはプロになりません」と言っていた。それを説得してプロの道に引き入れたのが村井さんです。ライトミュージックコンテストの優勝のご褒美に赤い鳥はロンドンに行くことになっていて、村井さんも「じゃあレコードを作ろうよ」という事でロンドンに向かうんですね。その時の話も伺っております。お聞きいただく曲は、赤い鳥の「翼をください」。
