全国に344店舗を展開する「串カツ田中」。その創業社長の貫啓二氏(55)が、創業前に経験した逆境を、ライターの松浦達也氏に語った。売上が伸びていたにも関わらず、ついには倒産寸前に追い詰められ……(文中敬称略)。

【画像】貫啓二さんが創業した「串カツ田中」は、いまや居酒屋として全国に344店舗を展開。写真は創業当初の「串カツ田中」で調理する貫さん

◆◆◆

 1998年に開店した最初の店は大阪・アメリカ村のバーだった。兄に連帯保証人を引き受けてもらい、信用金庫から700万円を借りた。200万円の貯金と10年ほどの会社員生活で得た100万円の退職金を握りしめての船出だった。


「串カツ田中」の創業者・貫啓二氏 Ⓒ文藝春秋

田中との出会い

「惨敗でした。家賃は月30万円なのに平日の売上は1日1万5000円。週末だけはサークル仲間が来てくれるので、なんとか月商100万円近くにはなりますが、自転車操業で自分の給料も出ないような状態。そんな状況のとき、友人が1人の女性を連れてきたんです。それが大阪・西成出身の田中洋江でした。『串カツ田中』の店名の由来の田中です。元々飲食業が好きだった田中は、昼間は事務職として働きながら、バーのメニューを考えたり、スタッフとして料理を作ってくれたりするようになったんです。西成の出身ということもあってか、時々串カツも差し入れてくれました」

 昼は弁護士事務所で働いていた田中は、貫にビジネスをインストールしていった。目標管理のためのノート作りを薦め、客入りのいい飲食店の視察に連れ出した。そうして少しずつ店の売上を伸ばしたある日、2人は「2年先にデザイナーズレストランをオープンさせよう」という目標を立てた。

「とにかく給料を抑えてでも、利益を出そう。利益を出して税金を納めれば、国民生活金融公庫(当時)からお金を借りられる。そうしてかっこいい飲食店を作ろうという乱暴な構想でした。1年後に改めて事業計画書を作り始めたら、田中から『いま有名な建築デザイナーが隣で飲んでるから、店に連れていくわ』って連絡が来たんです。話はトントン拍子で進み、その日のうちにそのデザイナーさんと『やりましょう』と握手を交わしました。それで2年後の2001年には大阪の堀江にデザイナーズレストラン『ターン・ザ・テーブル』を開店したんです。

 ただ、ほとんど居抜きで始めたバーと違って今回は内装やデザインにもお金がかかる。物件は1階と2階との合計30坪で家賃が70万円。保証金や運転資金などを考えると、5000万円が必要になり、また兄に連帯保証人をお願いしました。今度は1500万円です。兄は渋々ながらサインをしてくれました。さらに会社員時代に息子同然にかわいがってくれた上司も『お前やったらやれるやろ』と1500万円をポーンと出してくれた。その他、実家の母からも借りて、なんとか都合をつけました」

 新店舗は当たった。大阪のトレンド発信基地として認知され、半年後には1店舗目のバーもデザイナーズレストランに業態変更した。

次は東京で「勝負や」

 さらに勢いは加速する。2004年、貫は東京・青山に「京料理 みな瀬」をオープンさせた。

「ここが勝負やと思っていました。大阪でデザイナーズレストランをやって、かっこいいだけではダメだと気づいたんです。長く続く店には哲学がある。対してトレンドは移り変わる。流行に左右されない店が集まる土地で、強い店を作ろう、と考えていました。そんな折、青山の骨董通り脇の超一等地の屋上物件に巡り合ったんです。元々オーナーが住居に使っていたというペントハウス部分を飲食店に仕立て、屋上は庭園にしつらえました。料理も腕の確かな和食の職人を採用できた。『これは行ける!』と自信満々でオープンを迎えました」

 人目につく立地ではなかったこともあり、開店当初は苦労したが、ほどなく雑誌「東京カレンダー」で紹介されると予約が殺到した。

「青山の路地裏の屋上という隠れ家で内装も料理もきっちり作り込みました。特に青山に来るような人には喜んで頂けてリピートも結構してもらえるようになったんです」

 だが目論見どおりには運ばなかった。想像以上に出費がかさんだのだ。

※この続きでは、倒産寸前に追い詰められた貫啓二さんが「串カツ田中」を創業するまでの経緯が語られています。約1万1000字の全文は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」と「文藝春秋」2026年5月号に掲載されています(松浦達也「串カツ田中・貫啓二 倒産寸前の会社を救った『1枚のレシピ』」)。

(松浦 達也/文藝春秋 2026年5月号)