「歴史の皮肉」が偶然作り出した「ドイツ」という国家…陰惨な中世ヨーロッパ世界を苛烈に生き抜いた「オットー1世」の八面六臂な生涯
ヨーロッパ随一の強国は、ひとりの男によって作り上げられた。その名は神聖ローマ帝国初代皇帝・オットー1世。欧州を席巻した苛烈な王の生涯は、戦いの軌跡だった。身内からの反乱にイタリア遠征、そして強敵ハンガリーとの戦争。彼はいかにして数多の勢力を下し、その地位を固めていったのか。
オットー1世の生涯を辿れば、中世ヨーロッパが見えてくる。ドイツの源流・神聖ローマ帝国の歴史を綴った『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』から一部抜粋・再編集してお届けする。
『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』連載第83回
『万物の創造主に向けて吐き出された「最後の吐息」…中世ヨーロッパ世界の頂点に君臨したオットー1世が迎えた「唐突な最期」』より続く。
オットーの苛烈な生涯
ここでもう一度、オットーの生涯を振り返ってみよう。
オットーは父ハインリヒ1世の後を受けて東フランク王に即位した後、相次いで起きた異母兄タンクマールの反乱、弟ハインリヒの二度にわたる反乱、長子リウドルフの反乱を鎮圧した。そしてこの内戦の収拾過程で中央集権化政策を進めた。この政策は同時に教会組織を統治機構に取り込み、国家と教会を一体化させる教会政策を生み出した。
さらに、西フランクに対する圧倒的優位を獲得した。
「レヒフェルトの戦い」で難敵ハンガリーを打破し、東フランク王国の一体化を進めた。
スラブへの宣教をしゃにむに進め、東ヨーロッパのキリスト教化を推進した。
そしてなんと言っても北イタリアを獲得し皇帝に即位した。
これはイタリア政策の始まりである。オットー以降、オットー朝(ザクセン朝)、ザリエル朝、ホーエンシュタウフェン朝の約290年間の歴代皇帝が執拗にこだわり続けたこのイタリア政策が、後のドイツに与えた影響については評価の分かれるところである。
「ドイツを作った男」オットー大帝
ただ確実に言えることは合計10年以上の3次にわたるイタリア遠征において、オットーにはドイツというナショナルな意識は微塵もなかったということである。あるのはカール大帝の衣鉢を継いでローマ帝国以来の帝権を確立するという極めてインターナショナルな願望だけであった。そしてこのことがオットーのあずかり知らぬところで、結果的にドイツという国家意識を醸成することになったのである。
つまりオットーのインターナショナルな行動が結果的にナショナルなものを作ったのだ。しかもそのナショナルなドイツが分裂状態に陥ることになる。つまりこれは先にも書いたように(第69回)、オットーのイタリア遠征はドイツのまとまりと分裂という全く別のことを同時に促したということになる。歴史の皮肉である。
たしかに2点間の最短距離は直線である、というのはあくまでもイデアの世界の話であり、これに対し現実の歴史は常にうねって進み、作用反作用を繰り返し、一つだけの解答をかたくなに拒否するものらしい。ただオットーを創始者とする神聖ローマ帝国が後世のドイツとヨーロッパ全体に与えた影響はすこぶる大きい。これは間違いない。
だが、当のオットーにすれば、知ったことかという話であろう。オットーの時代にはドイツなどまだ存在もしなかったのだ。
オットーは中世ヨーロッパという苛烈な世界を、忙しく、苛烈な人生を、日常のものとして生き抜いただけである。
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