田尾監督には感謝しかない 電撃解任の際は一緒に辞めるつもりだったけど…【山武司 これが俺の生きる道】#83
【山粼武司 これが俺の生きる道】#83
【前回を読む】人の言うことを素直に聞いてみるもんだ 意地やプライドを捨てて田尾監督に従い実感した
楽天1年目の2005年。田尾安志監督から打撃の熱血指導を受けた。監督はこれまで続けてきた前さばき打法を「絶対打てないぞ〜」と爽やかにバッサリ。後ろ足重心でボールをギリギリまで呼び込む正反対のスタイルに変更した。
人の言うことに耳を貸さず、我を通してきたこれまでの自分とは違い、監督の助言を素直に受け入れた。春のキャンプから始め、シーズン中もギリギリまでボールを待ち続けた。
もちろん最初は詰まって前に飛ばない。少しでもポイントを前に持っていこうとすると田尾監督から「何やってるんだ!」と怒られた。結果が出始めたのは6月ごろ。「真っすぐ待ちの変化球対応」ができるようになり、終わってみればチーム最多の25本塁打だった。
田尾監督には感謝しかない。楽天という新天地に導いてくれ、プロ19年目で自分のスタイルをガラリと変えてくれた。いつしか人を信じられなくなっていた自分が人を信じられるようになった。2年目も一緒に戦いたい。そう思っていた。
それなのに……田尾監督は1年で電撃解任されてしまった。3年契約だったはずなのに。チームの勝利という形で恩返しができなかったことは悔やんでも悔やみきれない。楽天1年目の成績は38勝97敗で断然の最下位。選手としての責任を感じたし、罪悪感でいっぱいだった。
俺だけ残っても……と一緒に辞めるつもりもあったが、田尾さんからの「武司は残ってチームを強くしてくれ」という言葉が思いとどまらせた。
ちなみに、田尾さんとは今でも交流がある。現役時代は「タケシ」と呼ばれていたが、今は「タケちゃん」。毎年、お中元やお歳暮も送っている。
シーズン終了後の10月、田尾さんの後任として名前が挙がったのが、あの野村克也監督だった。名前を聞いた瞬間、愕然とした。
「最悪だ……」
この時、野村監督はすでに70歳。プロで27年間にわたり活躍した名選手だっただけでなく、監督としてヤクルトを3度の日本一に導いた球界の名将だ。しかも、指導スタイルはデータを重視した「ID野球」。俺なんて、真っ先に嫌われるタイプじゃないか……。
最後の最後でまた試練を与えてくれるな、と神様を恨んだ。
「まあいいや。どうせ合わないだろうから、最後の1年楽しんで辞めよう」
同時に、半分諦めの境地に達していた。
振り返れば、野村監督と初めて言葉をかわしたのは中日時代の1996年7月11日。福井でヤクルト戦があったときのことだ。
当時、野村監督はヤクルトの指揮官。オールスターでセ・リーグを率いることが決まっていた。俺はこの年、野村監督の推薦でオールスターに選出。試合前、ヤクルトのベンチに出向き、「選んでいただいてありがとうございます」と言ってお礼を伝えると、「おお」と言われたのが初めての会話だった。
オールスター中は話すこともなく、それ以来、ほとんど接点がないまま10年が経った。
そして迎えた06年の春季キャンプ。「絶対合わない」という予想は見事に的中する。
(山粼武司/元プロ野球選手)
