【豊臣兄弟!】宮崎あおいが演じる悲劇の戦国女性 「お市の方」に学ぶ危機におけるしたたかな生き方
小豆袋の逸話が欠かせない理由
織田信長の妹で、浅井長政に嫁いだ市。彼女のエピソードで有名なのが小豆の袋の話である。元亀元年(1570)4月、朝倉氏の本拠である越前(福井県北東部)に攻め込んだ信長のもとに、市からの陣中見舞いが届いた。袋に入った小豆だったが、袋の両端がひもで堅く縛ってあった。市は小豆を入れた袋をとおして夫、すなわち信長の義弟である浅井長政の裏切りを兄に教えた、というのだ。
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つまり、両端が縛られた小豆袋は、朝倉と浅井に挟み撃ちにされている信長の軍勢を表していて、妹の機転のおかげで信長は九死に一生を得た、という話である。この逸話は『朝倉家記』などに記されている。

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第14回「絶体絶命!」(4月12日放送)でも、この小豆袋は登場した。すでに柴田勝家(山口馬木也)が信長(小栗旬)らに、長政(中島歩)が裏切ったという情報を伝えていたが、遅れて勝家が信長に「お市さまがこれを。陣中見舞いの小豆と」と差し出したのだ。
長政の裏切りを信じたくない信長は、「まことに浅井が寝返ったのなら、このような気の利いたものを送ってくるはずがあるまい」というが、竹中半兵衛(菅田将暉)は「その小豆はわれらのことかもしれませぬ。前と後ろをふさがれ、まさに袋のネズミじゃ」という見方を示し、藤吉郎(池松壮亮)が「お市様は敵に気取られぬように、そのようなかたちで殿の窮地を知らせようとされたのでは」と訴えた。
時間がたってからまとめられた『朝倉家記』などに記されているこのエピソードについては、同時代の史料に書かれていないことから、いまではほぼ否定されている。戦国大名同士が敵対関係になった場合、国境の街道なども封鎖されるので、陣中見舞いを送れたわけがない、という見方もある。
だが、あまりによくできた話なので、逆に、後世にこんな話を考えつくだろうか、という気もしてしまう。否定されてもこうしてドラマでは必ずといっていいほど描かれ、2023年の『どうする家康』では、小豆袋は直接出さないものの、「阿月(あづき)」と名乗る市の侍女が遠距離を走って危機を伝えた。それくらい浅井の裏切りの場面で「小豆」が欠かせないのだ。その理由は、市のつらい心情を表すのにもってこいのエピソードだからだろう。
つらい状況でしたたかにすごした
いうまでもなく、市は政略結婚によって浅井長政のもとへ嫁いだ。そうやって嫁ぎ先に送られた女性は、2つの家を結びつける結節点の役割を負ったが、状況次第でさまざまに翻弄された。
市が嫁いだのは永禄10年(1567)だとされる(もっと早いという説もある)。織田家と浅井家が同盟を結ぶうえで、接着剤になったわけだが、その場合、嫁いだ女性には、嫁ぎ先で外交工作を行ったり、情報収集したりする、いわば実家代表の外交官のような役割も期待されることが多かった。一方、実家が滅んだり地位が低下したりすれば、離縁されたり、嫁ぎ先での地位が低下したりするリスクを負っていた。
婚家が実家と敵対した市の場合、非常に複雑な境遇に置かれたのはまちがいない。戦国の世における敵対だから、どちらかの家が滅びる可能性が高く(この時点では、挟み撃ちに合った実家が滅亡する可能性のほうが高かっただろう)、そんな悲劇的な状況における小豆袋の逸話は、それが事実であろうとなかろうと、市の心情を物語っているといえよう。
以後、天正元年(1573)9月1日、信長軍に小谷城(滋賀県長浜市)を攻められ、浅井長政が自刃するまでの3年余り、織田家と浅井家の争いは続く。その間、市の心中たるやいかばかりだったかと思うが、少なくともかたちのうえでは浅井家とうまくやり、かなりしたたかにすごしてきたようだ。
したたかに「血」を残していた市
市の生年は天文16年(1547)、または同19年(1550)などといわれる。仮に天文19年の生まれなら、浅井家が織田家に背いたとき、数え21歳だったことになる。市は浅井長政とのあいだに3人の娘をもうけている。長女の茶々、次女の初、三女の江である。そのうち長政が信長を裏切った時点で生まれていたのは、永禄12年(1569)の生まれと考えられる茶々だけだった。残りの2人は、実家が婚家の敵になったのちに生まれているのである。
3人は年齢が2歳ずつ違うと考えられており、そうであれば初は元亀2年(1571)、江は天正元年(1573)の生まれということになる。初に関しては、長政が信長を裏切った時点で市は妊娠していた可能性もあるが、少なくとも江は、両家が敵対してのちに妊娠したことになる。長政は信長に背いても、市を廃除していなかったことがわかる。
それは裏返せば、市のしたたかさを表している。彼女には、織田の血を残す役割を果たすという意識があったはずで、それを見事に成し遂げたのである。ちなみに、茶々はいうまでもなく、のちの秀吉の別妻、淀殿である。京極高次のもとに嫁いだ初には子どもがなかったが、江は家康の嫡男で2代将軍になった秀忠の妻として、3代将軍家光を生んでいる。
さて、いよいよ浅井氏が追い詰められたとき、市と娘たちはどうなったのだろうか。ドラマなどでは、小谷城が落城する際、燃え盛る城を後ろに、3人の娘とともに脱出する市が描かれることが多い。だが、当時の史料は一般に、女性に関する記述は少ない。
長政には『豊臣兄弟!』にも出てくるが、万福丸という嫡男がいた(市の子ではないと考えられている)。こちらについては『信長公記』にこう書かれている。〈浅井長政の十歳になる嫡男がいるのを探し出し、関ガ原というところで磔に掛けた〉(中川太吉訳)。ところが市と娘たちについては、寛永年間(1624〜44)に成立した『当代記』に〈浅井備前守妻女は信長妹也、然る間、異儀なく引き取られる(浅井長政の妻は信長の妹で、それゆえに、問題なく引き取られた)〉と書かれているにすぎない。
落城より前に脱出していた可能性
江戸時代に成立した軍記物に対象を広げると、信長の事績を記した『総見記』、および『浅井三代記』に、市と三姉妹が小谷城を脱出した際のことが記されている。ともに天正元年8月28日夜、すなわち小谷城が総攻撃を受ける前夜のことだとしているが、それぞれに付き従った人や、彼女たちが預けられた先が異なる。このため、参考程度にしかならない。
太田浩司氏は、〈浅井家家臣には多くの離反者が出たが、最後まで小谷籠城していた家臣さえも、形勢の逆転を信じていたものは、おそらくいなかったであろう〉としたうえで、〈この状況の中で、市と三姉妹は、ほんとうに落城寸前に小谷城から脱出したのだろうか〉と疑問を呈する。〈落城に至るまでの間に、浅井長政と織田信長の間には様々な交渉があったはずで、その中でも男子はともかく、市と三姉妹はもっと早い段階で、城外に脱出していたことも想定されてよい〉とする(『浅井長政と姉川合戦』淡海文庫)。
「たしかに!」と首肯させられる。太田氏はこんな話を載せる。小谷城の南東にある実宰院は、長政の姉の見久尼が中興した寺として知られ、以下のような寺伝があるという。落城に際して浅井長政は姉の見久尼に三姉妹の養育を依頼し、姉は無事に実宰院で三姉妹を養育した――。
実際、実宰院にある見久尼の木造は、淀殿が寄進したものだという。また、寺には、初の夫である京極高次が寺の運営に大きく関わり、その住持(住職)について秀吉に報告する必要があったことが、寺に残る記録からわかる。太田氏は、この寺が三姉妹と「ただならぬ関係」にあり、それは〈三姉妹も一時期は身を寄せていたからこそ〉と見る。大いにありそうな話だ。
そうだとすれば、戦火のなか脱出したのではないのかもしれない。ちなみに、小谷城は落城時も焼けなかったので、炎のなかの脱出は完全な作り話である。
その後、柴田勝家に再嫁して、悲劇的な最期を遂げる市。浅井長政との結婚も悲劇的ではあったが、あきらめずに夫との関係を保ち、実家の血を残し、その子たちを生かす。戦国女性としてのたくましさのほうが強く感じられる。
香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
