「暗証番号、なんだっけな…」88歳父のつぶやきで口座凍結。「月20万円」を肩代わりする54歳息子の後悔
親の介護が必要になったとき、多くの人が「親の貯蓄で費用を賄えばいい」と考えがちです。しかし、いざ支払いの段階になって、目の前にあるはずの資産が使えないという事態も珍しくありません。十分な蓄えがあるにもかかわらず、息子が老人ホーム費用を肩代わりしているケースをみていきます。
「レトルトカレーの山」が告げていた、父の限界
東京都内に住む会社員の高橋浩一さん(仮名・54歳)は、千葉県内で一人暮らしをする88歳の父・道夫さんの異変を感じていました。週末に実家を訪れるたびに、家の中の様子が少しずつ変わっていったからです。
「帰省するたび、ゴミ出しが間に合わなくなっているのには気づいていました。でも、決定的だったのはキッチンの棚です。同じ銘柄のレトルトカレーが、20箱以上も積み上がっていたこと。父に聞くと『安かったから買ったんだ』と言うのですが、目つきがどこか虚ろで。郵便受けには水道代の督促状が刺さっていても、本人はそれを隠そうともしない。そこでようやく、何かがおかしいと確信しました」
浩一さんは父を病院へ連れて行き、検査を受けさせました。診断結果は「中等度の認知症」。医師からは独居の危険性を指摘され、浩一さんは父を介護付有料老人ホームへ入所させる決断をします。
入居一時金に加え、月々の利用料や医療費で約20万円。高額ですが、道夫さんの約2,000万円の貯蓄と年金を合わせれば、十分に賄えるはずでした。しかし、その計画は銀行の窓口で脆くも崩れ去ります。
「入居費用の支払いのために、父を連れて銀行に行きました。本人確認をして、暗証番号を入力すれば済む話だと思っていたんです。でも、父はATMの前で立ち尽くしてしまった。窓口の担当者が『お父様、番号をお願いします』と優しく促しても、『知らない。そんなものは聞いていない』とパニックになってしまって」
行員は奥から責任者を呼び、道夫さんへの聞き取りを始めました。今日ここに来た理由、生年月日、そして隣にいる浩一さんとの関係。道夫さんは浩一さんを指して「私の弟だ」と答え、出金の目的も説明できませんでした。
「その場で、口座が凍結されました。銀行員の方は申し訳なさそうに『ご本人様の判断能力が不十分な場合、財産保護の観点からお取引を制限せざるを得ません』と。父の通帳が目の前にあるのに、一円も引き出せない。法的に有効な代理人を立てるまでは、手出しはできないと言われたんです」
その日から、浩一さんの生活は一変しました。父の施設代、月々20万円。それは本来、父自身の資産で支払われるべきものでしたが、現在はすべて浩一さんが負担しています。
「父には貯金があるのに、なぜ私が……。うちの子はまだ大学にお金がかかる時期ですし、住宅ローンも残っています。もし父に貯金がないのなら納得がいきます。でも、実際には2,000万円という蓄えがある。それなのに……」
十分な資産がありながら、その資産自体が使えない。「空白の期間」が高橋さんを追い詰めていきます。
認知症600万人時代に潜む「資産凍結」の真実
高橋さんの身に起きた事態は、超高齢社会の日本において誰にでも起こり得る問題です。厚生労働省の推計によれば、2040年時点での認知症患者数は、およそ584万人になるといわれており、資産管理のリスクは年々高まっています。
銀行などの金融機関は、預金者の判断能力が不十分であると判断した場合、本人の財産を親族による使い込みや詐欺から守るために口座を即座に凍結します。これが結果として、高橋さんのように家族による正当な介護費の支払いさえも阻む要因となってしまいます。
解決策として提示される成年後見制度も、利用者にとって経済的な重荷となる側面が否定できません。最高裁判所の司法統計資料『成年後見関係事件の概況』によると、後見人に親族が選ばれる割合は19.1%に留まり、残りの約8割には弁護士や司法書士等の専門家が選任されています。この場合、管理財産額に応じて本人の資産から月額2万〜6万円程度の報酬が、亡くなるまで永続的に支払われ続けます。
法務省の啓発資料が示す通り、こうした負担を避け、凍結後も柔軟に資産を管理するためには、本人の判断能力が確かなうちに「家族信託契約」や「任意後見契約」を公正証書等で締結しておく必要があります。
窓口で意思疎通が困難と判断された後では、これらの法的対策を講じることは不可能です。遺す側と遺される側の双方が生活を維持するためには、判断能力が十分な時期に、具体的な資産管理の契約を完了させておくことが不可欠です。
