今西和男氏(C)日刊ゲンダイ

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今西和男(サンフレッチェ広島 元GM/総監督)

 サッカー日本代表の森保一監督の恩師である今西和男(いまにし・かずお)さんが16日未明、肺炎のために広島市内の病院で亡くなった。85歳。今西さんは22年10月、本紙のインタビューに応じ、森保監督との秘話について語っていた。その記事を改めて掲載する。

元日本代表“闘将”だけが知る森保一監督の素顔と能力 「ドーハの悲劇」でも共にピッチに

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「ワシは(JR)広島駅から15分ほどのところに住んどるけぇ、ほうじゃのぅ〜、駅の近くで会いましょうか」。御年81歳の<森保ジャパンの生みの親>は「自転車をこいで来ました」と言いながら、待ち合わせたホテルのロビーに約束の時間ピッタリに現れた。22日のルヴァン杯決勝を制したJ1サンフレッチェ広島の敏腕GM時代の威圧感は薄れたが、難業に立ち向かう息子の身を案じる親のような優しいまなざしで日本代表・森保一監督(54)との出会いから語り始めた──。(年齢などの数字は掲載日=2022年10月31日当時のもの)

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 ──森保監督との最初の出会いは?

 長崎日大高・下田監督の年賀状に「ぜひプレーを見てもらいたい選手がいます」と書いてあったんじゃ。マツダの(オランダ人)コーチのオフト(1992年3月に日本代表監督に就任)と長崎に出向いた。体つきもまだまだだし、別段上手なわけでもない。スピードもなかった。オフトは平凡な選手と判断して興味を示さんかった。でも「視野が広くて先の先の先の3手先まで読んでパスが出せる」と思うた。危機察知能力もあった。それから一人で何度か森保を見に行き、高3の夏休みに「控えチームの愛媛合宿に参加しんさい」と通知を出した。そこで面談をすると大人と向き合って会話を続けても集中力が途切れない。「こりゃ伸びしろがあるわい」と採用することに決めたんじゃ。

■マツダ本社枠から外れて子会社採用

 ──ところが、マツダの本社採用予定枠6人が5人に減り、6番目の評価だった森保監督のマツダ入りは宙に浮いてしまった。

 約束した限り、取り消すわけにはいかん。子会社のマツダ運輸の社長がマツダのサッカー部の部長だったし、入社させてもらってサッカー部に登録することにした。「いつかマツダの本社採用に切り替える。子会社採用でもいいか?」と連絡をした。森保は「それでもいいです。ずっとサッカーを続けたいです」と言うてくれたんじゃ。

 ──本社採用の同期とは給与など待遇面で差があり、中国リーグに所属するBチーム「マツダSC東洋」で練習する日々。ふてくされてもおかしくない。

 普通はひがんだりするもの。でも、森保は不満をひと言も口にしなかった。前向きにサッカーに取り組み、1年でマツダの本社採用に切り替わった。2年間は試合に出られんかったが、入社3年目になってようやく日本リーグで公式戦にデビューした。

 ──マツダの監督だったオフトが退任するときに「いずれ前川(和也=54歳。元日本代表GK)、横内(昭展=54歳。現日本代表コーチ)、森保の3人は指導者になるだろう」と言い残した。

 本当にその通りになったのぅ〜。森保は、1学年上のヨコ(横内)とウマが合った。広島駅近くにあった一軒家の独身寮で2人が一緒にいる光景を覚えとるよ。試合でも息の合ったプレーを見せてくれた。左ボランチの森保と左のウインガーのヨコが連係しながらようけチャンスをつくってくれたもんよ。

モリ・ポイチと呼ばれていた

 ──日本代表初の外国人監督にオフトが就任して「シャイで若かった森保の成長を確認した。中盤で試合の流れを読め、規律を持って攻守ともにサポートできる」と代表に大抜擢した。すると代表のチームメートから「モリか? モリホか? 名字がモリで名前がポイチとか?」と言われた。

 その逸話は聞いたことがある(笑)。なかなかモリヤス・ハジメと呼んでもらえず、ポイチと呼ばれていたそうですな。

 ──サッカー選手にとって、良い監督は「自分を使ってくれる監督」。控え選手は不満を募らせるものだが、森保ジャパンに森保監督を悪く言う選手は皆無に近い。

 ワシらが現役の時代は「オレの言うこと、聞いとらんのか!」と指導者に理不尽に怒鳴られても黙々とプレーした。ワシは「人の話を考えながら聞く」「自分の思いが伝わるように考えながら話す」ことの重要性を広島の選手に伝えた。今は指導者が選手の話をじっくりと聞き、選手の方から監督の懐に飛び込んで対話する時代になった。森保は<今の時代に合っている指導者>と言える。

 ──森保監督が、五輪代表監督に就任したときに「長崎で育って広島でサッカー人として成長させてもらった。(被爆地との関わりから)平和をアピールしたい」という趣旨の発言をしている。

 そういったことにも思いが及ぶところが、いかにも森保らしいと思った。原爆が投下された日(45年8月6日)、4歳だった私は被爆して左腕、左足に大きなケロイドが残った。人に見られるのがイヤで半ズボンははけんかった。サッカーを始めたのは高2になってから。14歳で被爆した広島の大先輩・長沼健さん(2008年に77歳で死去。第8代日本サッカー協会・会長)に日本代表選考合宿で初めて会ったとき、「ワシも差別されて嫌な思いをした。悔しい気持ちをサッカーで晴らそうじゃないか」と元気づけられました。

 ──カタールW杯で森保ジャパンはドイツ、コスタリカ、スペインと戦う。非常に厳しいグループに入った。

 手ごわい相手ばかりじゃねぇ〜。どう勝機を見いだすか? しっかり守るのは当たり前。でも守ってばかりではイカン。ちゃんとリスク管理をしつつ、時には勇気を持って攻めることも必要となる。そこの見極めが大事になってくる。

 ──森保監督にとって初のW杯本大会参戦ですが、浮足立ったり、平常心を保てなくなるという心配は?

 まったく心配はしていない。森保は現役時代、(94年米国W杯最終予選で)あのドーハの悲劇を経験している。一瞬の隙が命取りになる。そのことが骨身に染みている。沈着冷静に戦ってくれるだろう。

 ──自分の眼力を信じて見いだした長崎の無名選手が、日本代表を率いて大舞台に臨む。

 感慨もひとしおだ。本大会では、やはりチームプレーが大事になる。東洋工業・マツダの時代から、広島はチームプレーでライバルに対抗してきた。謙虚さを忘れず、組織的に戦うことの大切さを森保は知っている。日本代表のスタッフ、選手が集中力を切らさず、チーム一丸となって強豪国に対抗してくれるでしょう。森保なら必ずやってくれると信じとるけぇ〜の〜。頼むでぇ〜。

(聞き手=絹見誠司/日刊ゲンダイ)

▽今西和男(いまにし・かずお) 1941年、広島市生まれ。舟入高-東京教育大(現筑波大)から東洋工業(現広島)。元日本代表DF。広島でGM、総監督、強化部長など歴任。大分、愛媛、岐阜の要職に就きチームの立ち上げ、強化、昇格などに貢献。94年にはJFA強化委員会副委員長に就任。98年仏W杯出場をバックアップした。吉備国際大の教授、同大サッカー部総監督など歴任。