「大司教」の後任を巡って本国の貴族と「対立」…「遠隔統治」の限界に直面したオットーが決意した”5年ぶり”の「帰郷」
ヨーロッパ随一の強国は、ひとりの男によって作り上げられた。その名は神聖ローマ帝国初代皇帝・オットー1世。欧州を席巻した苛烈な王の生涯は、戦いの軌跡だった。身内からの反乱にイタリア遠征、そして強敵ハンガリーとの戦争。彼はいかにして数多の勢力を下し、その地位を固めていったのか。
オットー1世の生涯を辿れば、中世ヨーロッパが見えてくる。ドイツの源流・神聖ローマ帝国の歴史を綴った『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』から一部抜粋・再編集してお届けする。
『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』連載第78回
『膠着する「南イタリア戦線」と疲弊する兵士…「世界の終わり」と評されたオットーのビザンツ侵攻を一変させた、ビザンツ皇妃の「皇帝暗殺」』より続く。
オットー2世の結婚式
971年、和平条約の締結を受けてケルン大司教ゲーロがコンスタンティノープルに派遣された。彼は翌年早々に、花嫁テオファノを連れて帰ってきた。
帰ってきたといっても東フランクにではなく、イタリアにである。
オットーのイタリア滞在はすでに5年を優に過ぎている。その間、オットーは一度も帰郷していない。となればオットーの宮廷はイタリア王国の首都パヴィアにあると言ってもよい。そしてその宮廷を取り仕切るのは皇妃アーデルハイトである。
真相はよくわからないが、どうやらアーデルハイトはこの縁談がお気に召さなかったらしい。そこでパヴィアの臨時宮廷ではテオファノを追い返せという声が上がるが、オットーはそれを許さなかった。
こうして972年4月14日、オットー2世とテオファノの結婚式がサン・ピエトロ大寺院で行われ、併せて教皇ヨハネス13世は花嫁に皇妃の戴冠を行った。
要するにオットーは今更、ビザンツと事を構えたくなかったのである。おまけに本国からの報告によると、イタリアに居ながら東フランクを統治するという遠隔統治にあちこちほころびが見えてきた、という。オットーは帰心矢の如しとなる。
遠隔統治の限界
それは、3年前の969年のケルン大司教人事にもすでに表れていた。
オットー2世の花嫁テオファノを迎えに行くという大役を仰せつかったケルン大司教ゲーロは、亡くなった前任者フォルクマールの後を継いで大司教となっている。
フォルクマールが亡くなったとき、ケルンの聖職者と貴族は一致して当時、宮廷礼拝堂司祭を務めていたゲーロを後任に推薦してきた。しかしイタリアに居るオットーは難色を示した。そのため人事はなかなか決まらず、決着はその年の復活祭までかかってしまった。
名前からもわかるように、新大司教候補者はあのゲーロ辺境伯の甥にあたる。オットーはもうすでに亡くなっているゲーロ辺境伯がかつてリウドルフの反乱に同情を寄せたこと、そしてザクセンの地で強大な軍事力を握っていたことを苦々しく思い出したのかもしれない。
しかしオットーは結局、折れた。ゲーロの兄がヘルマン・ビルングの娘婿という点も譲歩の一因であるが、なんと言ってもイタリアに居る自分が遠き本国の貴族と事を構えるのは得策ではない、という判断である。
一説によれば、オットーは、復活祭の折、パヴィアの宮廷の一室にいた自分の目の前に一人の天使が現れ、汝がこの人事を認めなければ汝はこの部屋を出られないと託宣した、と言ったという。神意に従う、とでも言いたかったのだろう。
悔し紛れの言い繕いである。それほどオットーは遠隔統治の限界を知り弱気になっていたのだ。
それからもう3年も過ぎている。オットー2世とテオファノの結婚式が無事すんだ今こそ故郷に帰る時だ。
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