日高屋が「焼鳥店」を始めたのはじつは「社員のため」だった…しかも「日高屋の隣」に次々出店中
関東を中心に人気を集める「熱烈中華食堂 日高屋」の新しい業態、それが「焼鳥日高」だ。中華チェーン店である日高屋が、なぜ焼き鳥店を手がけるのだろうか。創業者で、現在も会長をつとめる神田正氏が、その意外な理由をみずから明かす。
※本記事は、神田正 著、中村芳平 構成『日高屋 10人中6人に美味しいといわれたい』(日本実業出版社)の一部を抜粋、再編集したものです。
新しい業態「焼鳥日高」を始めた理由
神田は東証一部に上場してすぐの同年6月、新業態「焼鳥日高」の展開を開始、1号店の川口駅東口店を開店した。
「『焼鳥日高』は60歳以上の従業員の雇用を守る、福利厚生事業として始めました。よかったら、70歳まで働いて欲しいと思っているからです。
私も『来来軒』で40歳くらいまで中華鍋を振っていました。当時、中華鍋は1キロ以上あり、これにチャーハン3人前も入れて鍋を振るのは、かなり腕力がないと大変で、重労働です。
『来来軒』西川口店開店の頃、人集めが大変で、応募してくる人なら誰でも人を選ばずに採用しました。朝4時まで営業だと、夜の8時頃に交代要員が来るわけなんですが、よく無断欠勤されたことがあります。そうなれば昼11時から仕事をしている私が、朝4時まで、ぶっ通しで仕事を続けます。
真夏に鍋を振っていると、厨房の温度が50度くらいになる時があります。私は170センチメートルあるのですが、体重が40キログラムまで落ちてしまったことがあります。よく倒れなかったと思います。
いずれにせよ、60歳過ぎて中華鍋を振って料理を作るのはきついです。
それで、福利厚生事業として、身体に負担が少ない『焼鳥日高』を始めたんです。まあ、焼鳥屋なら身体が楽ですからね」(神田)
「地域や社会のインフラになりたい」
神田がなぜ、「焼鳥日高」に取り組んだのか。それは福利厚生事業以外に、もう1つ理由がある。駅前屋台ラーメン・屋台おでんを復活させたかったからだ。
「昭和時代、駅前の屋台はサラリーマンや、労働者、夜職の人たちなど、夜遅くまで働いていた人たちが集まるオアシスでした。そこで、おでんをつまみにビールや日本酒をグビグビと飲んで、ラーメンで腹を締めて、さっと帰っていく。あの頃の屋台は『地域や社会のインフラ』だった。
私が『日高屋』や『焼鳥日高』にこだわるのは、いつの時代にも大衆から必要とされる、地域や社会のインフラになりたいからなんです」(神田)
神田は規制で屋台がなくなった時、
「黒山のように集まっていた人たちのニーズは残る。屋台ラーメン・屋台おでんの代わりになる屋台風のラーメン店(日高屋)を出そうと閃いた」(神田)
すぐにアクションを起こすのが成功の秘訣
神田は、このチャンスを掴むために“すぐに”アクションを起こした。
そこが、起業家として成功し続けている神田のすごいところだ。
神田は現在、熱烈中華食堂「日高屋」の「隣のテナントが空くと、『焼鳥日高』用の物件として、借りている」という。
「焼鳥日高」は、15坪程度の小型店舗を少人数で運営していて、タッチパネルで注文し、客単価1650円の店だ。2026年(令和8年)2月時点で、1都3県に26店舗展開している。DX(デジタルトランスフォーメーション)の導入に取り組んでいる。
「焼鳥日高」は回転率がよく、利益率が「日高屋」を超える店もある。
神田は2026年(令和8年)2月に「焼鳥日高」とラーメン店をコラボさせた屋台のような店を新小岩駅近くにオープンさせた。
ここもまた、地域や社会のインフラとなるのだろう。
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