60代、歳を重ねて変化した「もの選び」で豊かに暮らす。調味料は安いものでOK、30年愛用している鍋も
数多くの女性誌や書籍の執筆を手がける、ライターの一田憲子さん(60代)。歳を重ねるなかで気がついた、人生の後半を楽しむヒントを紹介します。今回は、「これじゃなきゃ!」を手放し、暮らしが豊かになったもの選びについてです。
※ この記事は『最後の答えは、きっと暮らしの中にある。』(内外出版社刊)に掲載された内容を一部抜粋・再編集して作成しています

「これじゃなきゃ」を手放せば人は自由になれる
バターやみりん、オリーブオイル。取材で料理家さんや暮らしの達人に上質な調味料を教えてもらい、それを少しずつ買いそろえて、自宅で使ってみる。そんなことが楽しくてたまらない時代がありました。
憧れの人と同じ調味料を使ったら、あの人と同じ時間を体験でき、あの人のような暮らし方を手に入れることができるかも。でも…。どれも高価で、値段を見て見ぬふりをしないと買えません。若い頃の私は、それらを、ちょっと無理して買うことで、その人になれる気がしていたのでしょう。
50代後半頃から、老後の資金の問題が目前にせまり、家計管理なんて面倒で見向きもしなかったのに、考えざるを得なくなりました。収入は少しずつ右肩下がりに減っていくのだから、生活をひと回り小さくしなくてはいけません。ちょうど同時期に、「もう、いいか」と思うようにもなりました。そこまで上質じゃなくたって、そこそこでいいんじゃない? すてきな人の真似はおしまいにしていいんじゃない?

そこで、ずっと使い続けてきた調味料を変えてみることに。バターは「よつ葉バター」、みりんは「コープ」オリジナル、オリーブオイルは「カルディ」でその時期安売りになっているものに。私程度の料理の腕なら、味にはほとんど差がないことがわかってきました。
きっと私は有名な料理家さんから「これ、おいしいのよ」と言われると、疑いなく「そうなんだ!」と思い込んでいたのです。高価な調味料は、かっこいいラベルのビン入りで、それをエッチラオッチラ重たい思いをしながら買って帰る行為に満たされていたのかも。今、「コープ」で軽いプラスチックボトル入りのみりんを買って、いつもの大根の煮物をつくっても、いつものとおりおいしい…。
こうやって、今まで得てきた知識を、「本当にそうだっけ?」と再確認するお年頃になったのかなあと思います。自分の中にある情報を、ひとつずつ指差し確認し、自分にとって「いい、悪い」「いる、いらない」を判断していく。そんな「自分の地図の整理」がなんだかおもしろくて、新たな生活道具の選び直しをしている最中です。

NHKの『スイッチインタビュー』という番組が好きで、ときどき見ています。最近おもしろかったのが、引退した競泳選手の入江陵介さんと、Mrs. GREEN APPLEのボーカル大森元貴さんの対談。入江さんはこう語っていらっしゃいました。「なるべく抵抗の少ない泳ぎ。『ラクに速く泳ぐ』を追求してきたら、今の泳ぎになりました」
わあ、テニスと同じだなあと思いました。テニスも余計な動きをしないことが大事。手首でコントロールしようとしないことで、肩甲骨が動き、ストロークが安定すると思います。
これって、人生でも同じなんじゃなかろうか? と思うのです。がんばってなんとかしようとするのではなく、力を抜いて、ムダをなくし、自然体でできることを見つける…。
若い頃は、いろいろ真似して背伸びをすることにワクワクしたけれど、ひととおりそれを経験したあとは、少しずつ「ラクになる」方向へ降りていってもいいのかも。「これじゃなきゃ」を手放せば、暮らしがどんどん自由になる気がします。
「すてき」でなくても、上質な調味料じゃなくても、そこそこの素材でおいしくごはんが食べられればそれで満足! 幸せの地図を自分の手で描けるようになれば、伸びやかなラインを引くことができそう。
お手頃調味料で、さあ、今日はなにをつくりましょうか?
「減らす力」を手に入れれば本当の価値がわかる

鍋にゴマ油を熱し、豚バラ肉を入れて炒めたら、タマネギと皮をむき面取りしたメークインを放り込みます。肉ジャガはわが家のテッパンおかず。使うのは、30年ほど前に京都の「有次」で買ったやっとこ鍋です。取っ手がなく、ヤットコと呼ばれるペンチのような形の道具で持ち上げるこの鍋は、入れ子式で、6つのサイズがあり、しまうのに場所を取らないのがいいところ。
当時「京都に暮らしの道具を買いに行く」という初体験にワクワクして、銘を刻んでもらった鍋を大喜びで抱えて帰ってきました。
おかずができると、食器棚の前に立ってどの器にしようかと考えます。肉ジャガなら直径30cmほどの小鹿田焼の鉢に。こんなふうに毎日調理道具や器を使いながら、「たぶん、もう一生新しいものを買わなくてもこれで生きていけるな」と思います。
若い頃、どうしたら「センスがいい人」になれるんだろう? とずっと思っていました。私が自分の身の丈以上の器や調理道具を買ったのは、ものが欲しかったというよりは、「それを使っている人」と同じ暮らしの風景を見てみたかったのかも。
でも、正直に告白するならば、作家さんの個展に出かけて1枚の器を選ぶとき、それが本当に「いい」と思っていたかどうかは、はなはだ怪しいのです。「自分だけのものさしをもたなくちゃ」とよく耳にするけれど、どうしたらものを見る目を養うことができるかなんて、皆目わかりませんでした。
わけがわからないまま買って、それを持ち帰って家で料理を盛り、食べて、洗って、しまって…をくり返す。でも今になって、それがいちばんたしかな方法なんじゃないかと考えるようになりました。毎日使ううちに、だんだんその使い心地を手が覚えていきます。そしてその手の感覚が、次になにかを選ぶときの道標になってくれる。
作家さんがつくった粉引の器と、100円ショップの白い器の違いは、その手触り、重さ、料理を盛りつけたときの表情と、日常で使い続けた時間が教えてくれます。
最近では、ミニマムな暮らしが流行り、「やめる」や「減らす」暮らしが注目されています。でも、それは「やった」から「やめられる」のであり、「増やした」から「減らす」ことができるんじゃないかな。最初から2枚しかお皿をもっていないのと、10枚もっていて少しずつ減らして2枚にしたのでは、同じ2枚でも、そのお皿の価値は変わってくるのだ
と思います。
自己価値について、こんな話を聞いたことがあります。たとえばペットボトルの水があるとして、それにどれぐらいの価値があるか? 普通なら130円ぐらいの価値だけれど、それを砂漠で自販機もなく、喉がカラカラなときなら、1万円、100万円の価値になる。つまり、価値は、周囲の環境との相対的な関係性によって決まると…。
だとすれば、「センスがいい」の「いい」も、自分ひとりでは成立せず、比較対象がいてこその価値なのかもしれません。姿の見えない「だれか」と比べたら、いつまでたっても「なにがいいか」は見えてきません。私たちが唯一できることが、「過去の時間」の中との比較検証なのかも。今、老後に向けて器を少しずつ減らすとしたら、きっと私はサクサクと「いる」「いらない」をジャッジできる気がします。
それは、使い続けてきた日々が教えてくれるから。歳を重ねると、やっと自分の歩いてきた道の確かさを実感できるようになります。「正解」か「不正解」かというまぼろしを手放したとき、人は自然にものを「減らす力」を手にできる気がしています。
