お腹の張りが気になっていたため、できるだけ安静にしていたかったという。

「電車が駅に止まる度に乗客が増えて、少しずつ混雑していきました。そんな中、『苦しい……助けてください』という細い声が聞こえました」

 近田さんは顔を上げ車内を見渡した。すると、20代くらいの男性が、座席の前をゆっくり歩きながら訴えていたのだ。男性は野暮ったい服装に、気の弱そうな顔つきをしていた。

 立っている人の視線はスマートフォン。座っている人は目を閉じている状況だったそうだ。そして、その男性はふらふらと歩きながら、ついに優先席の前にきた。

「他の席にはサラリーマンたちが座っていました。見る限り健康そうな人で、妊婦の私だけが“優先席に座る理由がはっきりとわかる”感じだったんです。でも、誰も席を譲りませんでした」

 少し迷った近田さんだったが、その男性に「座りますか?」と声をかけた。

◆席を譲り、ずっと立ち続けることに…

「男性は、『ありがとうございます……』と小さく礼を言い、私の座っていた席に腰を下ろしました」

 近田さんは目の前の吊革につかまり、「しばらくの辛抱だ」と言い聞かせた。すると、男性が急に話しかけてきたという。

「そこで私は男性に、『どこで降りますか?』と聞きました。降車駅までまだ30分以上あるそうで、男性の体調を考えると、途中下車して休んだほうがいいんじゃないかと思ったんです」

 近田さんは「途中で降りて休んだほうがいいですよ」と伝えたのだが、男性は首を横に振り、「いや、大丈夫です。早く帰りたいんで……」と言い、そのまま目を閉じた。

「私はそれ以上は何も言えず、ずっと立ち続けていました。しばらくして男性が降りる駅に着いたので、『着きましたよ』と肩を軽くたたいたんです」

◆席を立った瞬間“スタスタ”と改札へ

 すると男性は目を開け、「ありがとう」と言いスッと立ち上がったという。そして、何事もなかったように、スタスタと改札のほうへ歩いていったそうだ。

 その動きは、先ほどまで「苦しい」と訴えていた人とは思えないほど足取りが軽かったようだ。

「そのとき、もしかして“男性は体調が悪いわけではなかったのではないか”と勘繰ってしまいました。ただ席に座りたかっただけなのかもしれないと……」

 しかし、近田さんが一番驚いたのは周囲の反応だった。

「車内にいた人は、誰一人として、男性を助けようとしませんでした。妊婦である私が席を譲るのを見ても、まるで他人事のようでした」

 近田さんは産休間近だったため、「妊婦だと一目でわかったはずだ」と振り返る。さらに、“マタニティマーク”もつけていたのだ。

「私は、ただただムカつきました。周りの人が見て見ぬフリをしたことに対して、憤りしかなかったですね」

 男性が降り、扉が閉まった後、近田さんは再び吊革をつかんだ。お腹の張りを感じながらも、ゆっくりと深呼吸をするしかなかったという。

 電車では個人のマナーが大いに問われる。だが、不快に感じても声をあげにくい空気があるのは事実だ。自分の何気ない行動が周囲の迷惑になっていないか、あらためて意識する必要があるだろう。

◆■ 数字が語る「マナー問題」と私たちができること

今回紹介したエピソードのように、一時の感情や身勝手な理由で、立場の弱い人を追い詰めてしまう。そんな車内の光景は、今の時代、決して他人事ではありません。

1. あらためて知っておきたい「マタニティマーク」の意味

厚生労働省が推進するマタニティマークは、外見からは判別しにくい妊娠初期の方も含め、周囲が思いやりを示しやすくするためのものです。