しあわせとは何か──若松英輔さんと読む『おおきな木』【NHK100分de名著】
人生にとって本当に大切なこと――『おおきな木』を、若松英輔さんが解説
2026年3月のNHK『100分de名著』は「絵本スペシャル」。子どもから大人まで、世界の広がりを知り、人生の意味を深めるための絵本4作品を取り上げる、春の特別編です。評論家、漫画家、俳優、批評家として活躍する講師陣を迎えて、誰もにひらかれた絵本の魅力を味わいます。
この記事では、第4回で取り上げる『おおきな木』について、若松英輔さんによる解説のイントロダクションを公開します。
第4回「しあわせとは何か――『おおきな木』」より
The Giving Tree
シェル・シルヴァスタインの『おおきな木』は、一九六四年にアメリカで出版されました。日本では最初、一九七六年に本田錦一郎訳で出版され、二〇一〇年に村上春樹による新訳が出ました。
私がこの絵本と出会ったのは、今から十五年ほど前のことです。「自分でも絵本を書いてみたい」と思い、その参考資料にと買い集めていた絵本の中の一冊でした。
一読して、たいへん驚きました。それまでの絵本は、心情に訴えかけてくるものが多かったのですが、『おおきな木』はまったく違って、何か深遠な哲学的な問いが秘められているように感じたのです。こんなことが、絵本でも表現できるのか、と感心というより静かに感嘆しました。
字や絵だけではなく、何もかかれていない余白の部分が、雄弁に語りかけてくるのも、とても印象的でした。はじめて読んだときの記憶が鮮やかで、今回「絵本の紹介を」というお話をいただいたときにも、まずこの本が思い浮かびました。
本に定まった読み方はありません。しかし、『おおきな木』の翻訳を読むとき、いくつか留意しておいたほうがよいことをお伝えしていこうと思います。
まず、書名についてですが、原題はThe Giving Tree、直訳すると「与える木」となっています。それが日本語への初訳のときに「おおきな木」と訳され、そのタイトルで長く親しまれてきました。しかし、日本語版では消えてしまった「Giving」という言葉は、この本において大きな意味を持っています。
アメリカやカナダには、秋になると収穫や日々の恵みに感謝を捧げる「Thanksgiving Day(感謝祭)」という祝祭があります。キリスト教的な世界観では、「giving」という言葉の背後に神の存在が意識されています。The Giving Treeというタイトルにも、人は絶対的に大きなものに生かされている存在である、私たちのいのちは、何ものかによって与えられたものだという実感が込められていると思うのです。
日本の子どもたちが読むことを考えると、「与える木」では分かりづらいですし、絵本の中でも木は、とても「おおきな木」として描かれています。ですから「おおきな木」というタイトルが誤りというわけではありません。ただ、The Giving Treeを『おおきな木』と訳したことによって、原書のタイトルに込められている人間を超えたものとの関係が感じにくくなっていることは、認識しておいたほうがよいように感じます。
「love」が意味するもの
もうひとつ、英語版の文中に出てくる「love」という言葉にもふれておきたいと思います。
冒頭の、木が少年を、少年が木を、それぞれ「だいすきでした」という箇所では、「like」ではなく「love」が用いられています。同じ「love」でも、少年と木では、意味合いは大きく異なるのです。
人が人に「I love you」と言うときも、「心から愛している」という意味の場合もあれば、単なる挨拶がわりの表現である場合もある。この本の中で使われている「love」という言葉もさまざまな読み方ができます。
木の少年への「love」は、真の愛、こころからの愛だといってよいでしょう。木は、ただひたすらに少年に寄り添い、受け入れ、与え続けます。
しかし少年の「love」はそうではありません。彼が木のことを「すき」だったのはたしかですが、それは必要なものは何でも与えてくれる木の存在が自分にとって都合がよかったからであるように読むこともできます。このあと読み進めていきますが、少年には、無条件に木を受け入れ、愛するということが、最後までできなかったのではないでしょうか。
私たちは人生の中で、いろいろなものや人を好きになります。けれど、この本の少年のように、もしかしたら、本当に相手を愛するということ、愛とは何かということを学ばないままに生涯を終えてしまうこともあるかもしれない。この本は、静かにそんな警鐘も鳴らしているように思われます。
『100分de名著』テキストでは、『100万回生きたねこ』『だれのせい?』『ぼくのこえがきこえますか』『おおきな木』の絵本4作品を読み解きます。
講師若松英輔
批評家、随筆家、詩人。1968年、新潟県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選、16年『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞受賞、18年『詩集 見えない涙』(亜紀書房)にて第33回詩歌文学館賞詩部門受賞、『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)にて第16回角川財団学芸賞受賞。19年、第16回蓮如賞受賞。その他の著書に、『詩集 ことばのきせき』(亜紀書房)、『学びのきほん 考える教室 大人のための哲学入門』(NHK出版)など多数。
※刊行時の情報です
◆「NHK100分de名著 「絵本スペシャル」2026年3月」より
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