広島テレビ放送

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81年前、広島で被爆した人たちの中には、台湾出身の人たちもいました。アート作品を通じて、その記憶と足跡の継承に取り組んでいる台湾の男性を取材しました。

2月3日。台湾から広島を訪れていた洪鈞元(ホン・ジュンユェン)さん(44)がたどっていたのは、台湾の被爆者の足跡です。洪さんが原爆について、調べ始めたのは5年前。台湾出身の妻の祖父が、広島で被爆したことを知ったことがきっかけでした。

■台湾出身 洪鈞元さん
「当時の人々が、どんな心境で戦争に向き合っていたのか共感してほしい。」

日本は日清戦争で勝利した1895年から50年間、台湾を統治していました。当時は多くの若者が、日本に留学していました。妻の祖父・林義方(リン・イーファン)さんも、その1人でした。1940年に広島県三次市の高校に留学し、その後、現在の広島大学を卒業。

そして、1945年8月6日。東洋工業の向洋工場に動員されていた林さんは、救援活動で入市被爆しました。

■台湾出身 洪鈞元さん
「私はまず台湾の被爆者の存在、特に語る機会のなかった林義方さんのようなケースを伝えたいです。」

洪さんは、林さんの遺品を、広島市現代美術館の公募展で展示しています。林さんが大切に保管していた黒いカバンに納められていたのは、『罹災証明書』や『被爆体験を記した手記』でした。

■林さんの手記(一部抜粋)
「8月7日、廃墟と化した市内に足を踏み入れ、まさに人間地獄のような惨状を目の当たりにした。全身が真っ黒に焼け焦げ、判別も出来ない遺体、皮膚がはがれ手足を失った人々、血と肉が混じり合った凄惨な光景が広がっていた。」

生前、家族にも体験を語ることはなかったという林さん。「絶対に開けるな」と言われていたカバンの中の記録に家族が触れたのは8年前、林さんが亡くなった後のことでした。

■台湾出身 洪鈞元さん
「この歴史は、自分が実際に体験したわけではないので、どこか現実感がなく、非現実的なもののように感じていました。しかし、実際に目の前にすると『本当にあったことなんだ』と、強く感じました。」

洪さんは、台湾の被爆者の体験が台湾で語られてこなかったのは、戦後、中国の統治下にあった当時の時代背景が影響したと考えています。

■台湾出身 洪鈞元さん
「林さんは自身が被爆者でありながら、その後台湾に戻ったとき、政治の状況のせいで自由にその経験を語れなかった。広島であれほど大きな出来事を経験しているのに、台湾へ戻ると、語ることを恐れて話せなかった。」

この日、展示を見に訪れていたのは、被爆者の豊永恵三郎さんです。81年前のヒロシマの記憶を辿っていきます。

■被爆者 豊永恵三郎さん
「私たちが住んでいたのがこの辺りだな、尾長町という。原爆が落ちたときには、坂町にたまたまいた。」

■台湾出身 洪鈞元さん
「被爆時、林さんは向洋にいたんです。その後、林さんは入市被爆したんです。」

台湾の被爆者の記憶を、受け継ぎたい。洪さんは、別の台湾の被爆者についても調べ始めています。この日、話を聞いたのは、被爆2世の日下美香さんです。証言するのは、台湾出身の父の被爆体験です。

■被爆2世 日下美香さん(紙芝居)
「突然、どーんという大きな音が鳴り響きました。」

■台湾出身 洪鈞元さん
「台湾の歴史博物館にも、同じようなものがあります。こんな感じ。」

■被爆2世 日下美香さん
「あ、そうでうね!父が言っていました。こんな木の箱に紙芝居が入っていて、小さい頃見たと言っていましたね。」

2025年の平和記念式典に、初めて参列した台湾。厚生労働省によると、台湾に在住する被爆者は、10人以下となりました。

■台湾出身 洪鈞元さん
「台湾の人が自分たちの歴史をよく知らなければ、他の国の人に語ることはできません。」

被爆体験を、直接証言することはできません。それでも、思いを受け継ぎ、後世に残すことはできる。

■台湾出身 洪鈞元さん
「たとえ、被爆者の2世・3世であっても、私たちは被爆を体験した人間ではありません。だから、被爆者の代弁者にはなれません。私の役割は、記憶の証言の連鎖だと思っています。」

林さんが残した手記の最後につづられていたのは、平和への思いでした。

■林さんの手記(一部抜粋)
「この地を訪れる人々が、戦争の残酷さと恐ろしさを心に刻み、共に世界の平和を追い求めていくことを願っています。」

【テレビ派 2026年2月12日放送】