新春恒例の皇居一般参賀は戦後に始まった 悠仁さまが初めてお出ましになった令和8年は、約6万人の人々が訪れた

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皇室の恒例行事「新年一般参賀」。天皇陛下をはじめ皇室の方々が、国民から祝賀を受けられる行事だ。皇居・宮殿東庭は、日常的には開放されていない施設ということもあり、誰もが”二重橋”の愛称で知られる石橋と鉄橋の二つの橋を渡り、皇居内へと入ることができる貴重な機会ともいえよう。2026(令和8)年は、昨年(2025/令和7年)9月に成年皇族となられた秋篠宮家の長男、悠仁さまが初めて皇居宮殿の長和殿ベランダに立たれた。訪れた参賀者は例年並みの約6万人であった。この新年一般参賀とは、いつから行われるようになったのか。皇族方のお出ましはいつからなのか。78年にわたる皇室と新年の参賀史をひも解いてみたいと思う。

※トップ画像は、秋篠宮皇嗣家の長男・悠仁親王殿下も加わり、14方の皇室の方々がお出ましになった令和8(2026)年の新年一般参賀。皇居宮殿の長和殿ベランダで=2026年1月2日、千代田区千代田

初めての参賀は1948(昭和23)年

戦後となる1946(昭和21)年の元日、年頭詔書(ねんとうしょうしょ)で“神格化”を否定し、人間宣言を行った昭和天皇は、その2年後となる1948(昭和23)年1月1日に、皇居・二重橋を開放して一般参賀(当時は「国民参賀」と呼んだ)を許可した。この年は、極東軍事裁判で先の大戦の戦犯25名に、判決が下された年でもあった。当時は、記帳所が設けられているだけで、昭和天皇のお出ましはなかった。

1948(昭和23)年の一般参賀は翌日の1月2日にも行われ、こうした2日間にわたり行われたのはこのとき限りだった。昭和天皇は、どれほどの人々が来ているのか気になり、お忍びで宮内府(当時)の庁舎屋上に上がられた。次いで香淳皇后も上がられ、これを見つけた参賀に訪れていた国民は万歳三唱を唱え、それに対し両陛下はお手振りでお応えになったという。お出ましの最初であった。以来行われるようになった新年の参賀は、昭和天皇おひと方のみのお出ましで、香淳皇后は先の第1回以降はお出ましになられていなかった。

その後、1951(昭和26)年の参賀では、昭和天皇と香淳皇后がそろって宮内庁庁舎に設けられたバルコニーへお出ましになるようになった。このバルコニーへのお出ましは、1950(昭和25)年に昭和天皇がはじめられたもので、1954(昭和29)年には38万1250人もの人々が祝賀に訪れたという。その群衆は、両陛下をひと目見ようと宮内庁の庁舎前で立ち止まり、続々と押し寄せる人波に押される形で二重橋(石橋)上で死者16人を出す痛ましい事故も起きている。

1954(昭和29)年の新年一般参賀のようす。当時の宮内庁庁舎の玄関に設けられたバルコニーで=資料所蔵/JLNA

パチンコ玉事件でガラス越しに

当時皇太子だった上皇、上皇后両陛下のご成婚から間もない1959(昭和34)年4月に行われた”天皇誕生日”の一般参賀では、天皇ご一家がお揃いでお出ましになった。新年の一般参賀ではないが、ご一家がお揃いでお出ましになられたのは、この時がはじめてのことだった。翌年(1960/昭和35年)の新年一般参賀では、香淳皇后は服喪中、皇太子妃殿下(現・上皇后美智子さま)は“おめでた”が近いため、お出ましになられなかった。

1963(昭和38)年から1968(昭和43)年までは、皇居の新宮殿(現在の宮殿)が建設中であったことから、新年一般参賀は行われなかった。1969(昭和44)年には、新宮殿の完成とともに6年ぶりに新年一般参賀が再開された。この時に長和殿のベランダにお出ましになられたのは、昭和天皇、香淳皇后、皇太子ご夫妻(現・上皇ご夫妻)、常陸宮ご夫妻の6方だった。

そして、事件は起きた。当時のベランダは今と異なり、ガラス製の風防室で仕切られてはいなかった。そこへ突如、昭和天皇めがけて「パチンコ玉」をゴムで飛ばす不届きものが現れた。パチンコ玉が昭和天皇に当たることはなかったが、このほかにも発煙筒が焚かれるなど、なにかと物騒な参賀となってしまった。翌年(1970/昭和45年)からは、現在のような”ガラス越し”での参賀となったことはいうまでもない。

皇居・二重橋前広場に設けられた特設のお立ち台にお出ましになった天皇ご一家。ご一家がお揃いで参賀にお出ましになったのは、この時がはじめてだった。左から清宮〔すがのみや〕内親王殿下(島津貴子さん)、常陸宮殿下(当時は義宮殿下)、昭和天皇、香淳皇后、上皇陛下(当時は皇太子殿下)、上皇后陛下(当時は皇太子妃殿下)=1959年4月29日、写真所蔵/JLNA

マイクを通じた「おことば」

昭和天皇と香淳皇后は、1968(昭和43)年11月の皇居・新宮殿が完成以降は、毎年お出ましになられた。1988(昭和63)年の新年一般参賀では、前年(1987/昭和62年)のご入院・ご手術後であったにもかかわらず、昭和天皇は元気なお姿を国民の前に見せた。香淳皇后は、ひざのご病気などのためにお出ましにならなかった。

現在のように、マイクを通じて「おことば」を述べられるようになったのは、1981(昭和56)年の天皇誕生日の参賀からはじめられたものだった。昭和天皇は、崩御の前年まで「おことば」を発し続けられた。以来、マイクを通じた”天皇陛下のおことば”は、令和の今も引き継がれている。

1989(昭和64)年の新年一般参賀は、昭和天皇が闘病の末に重体となられていたため、中止となった。平成になってからの中止は、1989(平成2)年の昭和天皇の諒闇中(一般でいう喪中)の1回だけであった。令和では3回、2021(令和3)年と2022(令和4)年は新型コロナウイルス感染症対策のために、2024(令和6)年は能登半島地震に配慮され、中止となった。

昭和天皇のご容体を気づかい皇居前広場に集まった人々=1988年9月24日、写真所蔵/JLNA

宮殿東庭の下にあるものとは

2019(平成31)年の新年一般参賀は、当時の天皇陛下(現・上皇陛下)が生前退位を控えた平成の時代としては最後となる参賀とあって、開門からわずか45分で、2万人もの人々が皇居・長和殿ベランダ前の東庭に集まった。その時点で入門を待つ列は、皇居前広場に収容しきれずに日比谷通りまで続き、4万人を数えるという異常な事態となった。

多くの参賀者に対応するため、お出ましの回数は予定の5回から6回に増やし、それでも並ぶ人々の列は途切れず、最終的には7回のお出ましとなった。結果、この日の参賀に訪れた人々は15万4800人を数えた。

カメラマン泣かせといえば、毎年のことなのであるが、人々の熱気というのはすごいもので、その人々の頭上には陽炎(かげろう)というか、炎のような揺らめきが立ち上がるのだ。これが原因で、カメラのピントが合わないことに悩まされるのは毎年の常。このため、陽炎の影響が出にくい1回目のお出ましに、カメラマン達は勝負をかけるのだ。

さて、参賀に集まった人々がいる宮殿東庭(きゅうでん・とうてい)の下には、何があるのかご存じだろうか。答えは「駐車場」。宮殿を訪れる賓客が乗ってきたクルマを留め置く場所になっているのだ。地下空間を支える東庭には、当然ながら荷重制限がある。このため、一度の参賀では2万人の収容が限界だという。2019(平成31)年の新年一般参賀では、この限界数値ギリギリの人々を収容したわけだ。

宮殿東庭へと参入する参賀者ら=2026年1月2日、千代田区千代田

参賀者を受け入れる前の皇居・宮殿東庭。東庭の地下空間は、宮殿を訪れる関係者向けの駐車場になっている=2019年5月4日、千代田区千代田

悠仁さまが出席された2026年の一般参賀

「新年おめでとうございます。新しい年をこうして一緒に祝うことをうれしく思います。その一方で、昨年も地震や大雨、林野火災、大雪などによる災害が各地で発生するなど、多くの方々がご苦労の多い生活をされていることを案じています。色々と大変なこともあるかと思いますが、本年が皆さんにとって穏やかで良い年となるよう願っております。」(2026/令和8年1月2日「天皇陛下のおことば」より)

初春を迎えた皇居周辺の気温計は5度を示す肌寒い朝となった2026(令和8)年の新年一般参賀。天皇陛下、上皇陛下をはじめ12方の皇族方がおそろいになり、14方の皇室の方々が皇居・宮殿の長和殿ベランダへお出ましになられた。昨年(2025/令和7年)9月に成年皇族となられた秋篠宮皇嗣家の長男・悠仁さまは、はじめての参賀となった。皇居・宮殿東庭に集まった人々の数は、例年とほぼ同じく計5回のお出ましで延べ6万140人(宮内庁発表)を数えた。

いまでこそ、すべての宮家の皇族方が新年の一般参賀にお出ましになられるが、昭和の時代はこのような形式では行われていなかった。具体的には、平成3年の高円宮憲仁(のりひと)親王〔大正天皇の第4皇男子=三笠宮崇仁親王の第3男子、2002/平成14年薨去〕と同妃殿下久子さまからはじめられたものだった。昭和天皇の時代は、いわゆる内廷皇族の御身位にある方だけに限られていた。

今年5回あったお出ましのうち、1回目には、天皇陛下、皇后陛下雅子さま、愛子さま、上皇陛下、上皇后美智子さま、秋篠宮皇嗣殿下、同妃殿下紀子さま、佳子さま、悠仁さま、常陸宮妃華子さま、寛仁親王妃信子さま、三笠宮彬子さま、高円宮妃久子さま、承子〔つぐこ〕さまの14方がお出ましになられた。なお、2回目以降では常陸宮妃華子さま、3回目以降は 寛仁親王妃信子さま、三笠宮彬子さま、高円宮妃久子さま、承子さま 、4回目以降は上皇陛下と上皇后美智子さまが、お出ましにはなられなかった。このようなスタイルは、例年どおりのものとなった。

参賀と呼ばれる行事の次回は、天皇誕生日である2月23日に行われる予定だが、新年の参賀と異なり、例年お出ましになるのは天皇ご一家と秋篠宮皇嗣ご一家だけに限られる予定だ。皇室の方々がお揃いになる新年の参賀は、やはり初春にふさわしい貴重な機会といえよう。

おことばを述べられる天皇陛下と皇后雅子さま。皇居宮殿・長和殿ベランダで=2026年1月2日、千代田区千代田

開門と同時に皇居へ参入する参賀者ら。二重橋(鉄橋)で=2026年1月2日、千代田区千代田

参賀に訪れた人々にお応えになる天皇、皇后両陛下。皇居宮殿・長和殿ベランダで=2026年1月2日、千代田区千代田

参賀者にお応えになる天皇ご一家と上皇ご夫妻、秋篠宮ご一家。皇居宮殿・長和殿ベランダで=2026年1月2日、千代田区千代田

参賀に訪れた人々にお応えになる悠仁親王殿下=2026年1月2日、千代田区千代田

参賀に訪れた人々にお応えになる愛子さまと佳子さま。皇居宮殿・長和殿ベランダで=2026年1月2日、千代田区千代田

参賀に訪れた人々に手話でお応えになる佳子さま。となりは弟の悠仁さま。皇居宮殿・長和殿ベランダで=2026年1月2日、千代田区千代田

文・写真/工藤直通

くどう・なおみち。日本地方新聞協会・皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会〔JPS〕正会員、ニコンプロフェッショナルサービス〔NPS〕会員、鉄道友の会会員。

【画像】新年一般参賀の歴史をたどる写真の数々。2026年の新年一般参賀のようすも。(12枚)