封印された天皇暗殺事件――悪臣・蘇我馬子が仕組んだ崇峻天皇“暗殺”の真相とは?

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飛鳥の都に、ひとりの天皇が突然、姿を消しました。その死は、誰にも知らされず、朝廷の記録にもほとんど残されていません。

けれど人々の口には、ひとつの噂が残りました――「天皇は殺された」。

黒幕として名を挙げられたのは、当時の実力者・蘇我馬子。

蘇我馬子像(Wikipediaより)

仏教を広め、法興寺を建て、日本の近代化を進めたと称えられる一方で、天皇を手にかけた男としても語り継がれています。その事件の真相は、いまも歴史の闇の中にあります。

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天皇と大臣、緊張に満ちた宮中

六世紀の末、飛鳥の政治は表向きこそ天皇が治めていましたが、実際の権力は蘇我馬子の手にありました。彼は四代の天皇に仕え、仏教を受け入れ、法興寺を建立した大臣でした。

しかし、その圧倒的な力は次第に恐れと反感を呼び、即位した崇峻天皇もまた、馬子の支配に疑念を抱くようになります。

「自らの手で政を行いたい」と望む天皇と、「自分こそが国家を支える」と信じる大臣。
ふたりの間には、目に見えぬ緊張が張りつめていました。

猪の首が招いた不穏な言葉

ある日、宮中に一頭の猪が献上されました。崇峻天皇はその首を見つめ、ぽつりとこう漏らします。

「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたい」

この一言が、運命を決定づけました。誰を指したのかは明らかではありません。しかし、馬子の耳に入ったとき、それは明らかに自分への脅しとして響いたのです。

権力の均衡は崩れ、宮中の闇に静かに火が灯りました。

静かに進められた謀殺計画

592年11月、馬子は密かに行動を起こします。「東国からの貢ぎ物を届ける」という口実で、家臣の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に密命を下しました。

その任務はただひとつ――崇峻天皇の暗殺。何の疑いもなく直駒を迎えた天皇は、刃に倒れ、その場で息を引き取ったと伝えられています。事件は極秘に処理され、朝廷には沈黙だけが広がりました。

のちに直駒は馬子の娘を奪って妻にしますが、それが命取りとなります。馬子の怒りを買い、彼自身も殺害されました。血の連鎖は、関わる者すべてを巻き込んでいったのです。

権力の裏にある孤独

崇峻天皇の死後、馬子は皇太后の炊屋姫を推して推古天皇を即位させ、日本初の女帝が誕生しました。政は再び安定したかに見えましたが、宮中を包む空気はどこか冷たく、重苦しいままでした。馬子は恐れと孤独の中で権力を握り続け、誰よりもその重さを知っていたのかもしれません。

一方で、崇峻天皇の暗殺は、馬子の単独ではなかったという考えも現在は指示されています。

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なぜ天皇は殺さねばならなかったのか。何かを守るための決断だったのか、それとも何かへの恐れが生んだ暴走だったのか。真相は、今も飛鳥の闇の奥に沈んでいます。

ただひとつ確かなのは、あの夜の血の決断が、日本の歴史を静かに、かつ大きく変えていったということです。

参考文献:豊田 有恒『崇峻天皇暗殺事件』(1990 講談社)