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英国スポーツの雛形といえる象徴的なカタチ

1952年のロンドン・モーターショーで、ドナルド・ヒーレー氏は、オースチン社のレナード・ロード氏へ新しいスポーツカーを提案。これをきっかけに誕生したオースチン・ヒーレー100は、成功といえる数が量産された。

【画像】19台のみのハンドビルド オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ 同年代の英国車も 全132枚

美しく流麗なロードスターを描き出したのは、カーデザイナーのジェリー・コーカー氏。ブリティッシュ・スポーツの雛形ともいえる、象徴的なフォルムが完成していた。北米市場を中心に、世界各国で支持を集めることになった。


オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)

ただし、小さな問題があった。性能をブラッシュアップし、メディアへの試乗機会などを提供するため、本格的な生産前に一定数の試作車が必要だった。最初に作られた1台のヒーレー100は、少数の有能な技術者によって設計され、手作りされていた。

ドナルドと息子のジェフリー・ヒーレー氏、開発部門を率いるロジャー・メナデュー氏、技術者のバリー・ビルビー氏、ワークスチームのハリー・ブランディッシュ氏という精鋭が、小さなワークショップには揃っていた。だが、量産できる環境ではなかった。

最終的には1953年3月に生産工場がグレートブリテン島の中部、バーミンガム・ロングブリッジに構えられるが、最初のプロトタイプは手作業で生み出す必要があった。デザインや設計へ改良を加え、量産モデルとして完成度を高めながら。

19台が作られた100のプロトタイプ

そこで、バーミンガムの南東、ウォリックに位置したドナルド氏のワークショップで、50台のハンドメイド・モデルを作る計画が立てられた。ところが、実際にラインオフしたのは19台に過ぎない。

NUE 854のナンバーで登録された、今回のヒーレー100もその1台。職人の手で成形されたアルミニウム製ボディをまとい、15番目に完成したクルマだ。


オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)

1940年代から、ヒーレー親子は自ら製作したマシンでイタリアの公道レース、ミッレ・ミリアへ参戦していた。彼らの誇りが、ゴールドに輝くプレートに刻まれている。

モータースポーツでの経験が活かされた堅牢なシャシーに、トルクフルなエンジンと優れたブレーキを融合。バランスに長けた操縦性を実現させていた。ドナルドたちは、それ以下では納得しなかったに違いない。

量産仕様のヒーレー100と今回ご登場願ったプロトタイプでは、観察すると細部で違っていることがわかる。だが、1952年のモーターショーへ展示されたコンセプトカーから改良も受けており、ヘッドライトの位置は既に高い。

最も大きな違いは、ボンネットやトランクリッドだけでなく、すべてのボディパネルがアルミ製なこと。パネルを結合するカシメ部分も機械プレスではなく、職人が手仕事で成形したため異なる。

ボディ後端には、オースチン・オブ・イングランドのロゴが飾られる。ロングブリッジでの量産が始まるまで、この表記が用いられていた。フロントグリルは、手作業で接合されている。

公道仕様にはBN1 テスト車両にはSPL

内装もハンドメイド。特にセンタートンネル部分のトランスミッション・カバーは形状が独特。量産仕様ではリベット止めされた2つの部品で構成されるが、アルミ製パネルから叩き出されている。

ステアリングホイールは17インチ。オースチンのロゴが入ったホーンボタンが、中央で輝く。


オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)

ダッシュボードも1枚のプレスではなく2枚で構成され、シートは木製の土台を介して床に固定されている。位置調整のため、何個か穴が開いているのが興味深い。シャシー側も、2か所から固定位置を選べるようになっている。

フロアパンには100-1ではなく、100と刻印されている。車体を持ち上げシャシーを観察すると、シャシーレール同士が突き合わせ溶接されている。被せ合わせたリップ部分ではなく。ステアリングラックの位置も2種から選べる。

エンジンは、アヒルの卵のように鮮やかなライトブルー。ラジエターダクトやファンカバーがなく、コンポーネントを流用したオースチンA90の面影がある。

ウォリックでハンドビルドされた19台のプロトタイプのうち、15台は公道仕様として車体番号の頭にAHXが付けられ、BN1のシャシー番号が与えられた。他方、特別なテスト車両にはAHRで始まる車体番号とSPLのシャシー番号が振られた。

ボディカラーは、シャシー番号BN1ではすべてヒーレーアイス・ブルー。SPLはメタリックライト・グリーンで統一された。現存するプロトタイプは少なく、最初の3台は北米へ輸出され、1台が残っているようだ。

プロトタイプと量産仕様の違いは50か所

ドイツのフランクフルト・モーターショーに出展されたのはAHX4だが、現存していない。AHR5はスイス・ジュネーブ・モーターショーのために作られたが、後にヒーレー100 Sへ改造を受け販売されている。

AHR6は、NOJ 392のナンバーで登録され広報用車両としてメディアに露出。1954年のル・マン24時間レースを戦った後、現在はオリジナル状態へレストアされ生き延びている。AHR7は1955年のル・マンを戦い、こちらもまだ大切に乗られているという。


オースチン・ヒーレー100 プロトタイプ(1953年)

AHR8とAHX9は廃車になった。AHX10は飛び番号でそもそも作られておらず、AHX11は現存する。AHX15とAHX17、AHX18、AHX20は消息不明。AHX19はNUE 855のナンバーで走れる状態にあり、2015年にオーナーが変わっている。

今回のヒーレーアイス・ブルーのプロトタイプは、AHX16の車体番号を持つ。販売を前提に製造された最初の右ハンドル車に当たり、非常に貴重なヒーレー100 BN1だ。

現オーナーは、クリス・ディクソン氏。識者の協力を得ながらプロトタイプと量産仕様の違いを50か所ほど特定し、ウォリックのワークショップをラインオフしたままの姿を目指してレストアされている。

ボディはジェンセン社による手作りで、初期のシェルはすべて微妙に異なる。ボンネットの開閉方法や、テールライトの造形も量産版と違っている。フロントの大きなスポットライトも特徴といえるだろう。

この続きは英国スポーツの雛形(2)にて。