ラジオ番組で(1993年撮影)

 昭和の歌姫が、令和の世に復活を期待されている。中森明菜。57歳。

 1980年代を駆け抜けた孤高のアーティストが、表舞台から姿を消して久しい。だがついに2022年8月、新事務所を設立し再始動を宣言。年末の『NHK紅白歌合戦』への出演が取りざたされている。

 芸能界の荒波に対し、彼女はその実力を武器に敢然と立ち向かい、時に傷ついた。その姿と歌声が、ファンの心をつかんでやまない。証言で、明菜の「これまで」と「これから」を描く特別読物。

※《中森明菜『スローモーション』後にポツリ「たぶん、清瀬に帰るの」“花の82年組”後発で曲集めに苦心【歌姫証言集(1)】》から続きます

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「安里、ごめん。ちょっと大変なことになった」

 1985年5月、ロックバンド「EUROX」(以下、ユーロックス)の関根安里の電話が鳴った。電話の主は明菜の二代目ディレクター・藤倉克己。

 藤倉はワーナー・パイオニアの洋楽部門から邦楽部門に異動し、ユーロックスを担当していた。そしてデビューを手掛けた島田雄三から明菜に関する業務を引き継いだばかりだった。

 関根はワーナーの本社を訪れた。藤倉は申し訳なさそうに話を始めた。

「明菜に『次のアルバムの候補曲だよ』と、間違ってユーロックスのデモテープを聴かせてしまった。曲を止めようとしたら、明菜が『続きを聴きたい』と言ってね。そして聴き終えたあと『デモのすべての曲を私の次のアルバムに入れたい』と言いだしたんだ」

 デモにはアルバム用の曲が十数曲収められていた。

「最初は藤倉さんが何を言っているのかわかりませんでした。え? スーパーアイドルがユーロックスの曲を?」(関根)

 関根は面食らい、戸惑った。ユーロックスはオルタナティヴ・ロックバンドである。チャート1位を連発している明菜とは方向性がまるで違う。

 藤倉は思案の末、明菜の新作アルバム『不思議』の大半の曲のサウンドプロデュースをユーロックスにまかせることにした。また、ユーロックスの曲は半分にして、残りの半分は別の作家に発注した。

「明菜ちゃんのキーはそんなに高くないので、ユーロックスのキーでオケを作ることができました。これは本当に助かりました。明菜ちゃん用、ユーロックス用と曲の録り分けをしなくてすみました」(同)

 リ・アレンジやセルフカバーではない。歌詞やミックスこそ違うが、オケはまったく同じものを使用した。

「山中湖のスタジオで曲を録り終えると、マルチテープをコピーして藤倉さんはタクシーで東京のスタジオへ移動。そのオケを使って明菜ちゃんの歌入れを始める。異例の対応でしたね」(同)

 しばらくして、明菜から音源にNGが出た。いわく、

「カッコいいけど『不思議』じゃないね」

 明菜の発案でタイトルを決めてから作り始めたアルバムだった。問題になったのは、この「不思議」の解釈だ。明菜は自分のボーカルに深いリバーブをかけるよう要求した。カラオケのエコーを最大にしろ、という意味に近い。

 明菜が手本にしたのはイギリスのロックバンド「コクトー・ツインズ」。藤倉はこれを拒否した。歌が聴こえないなんてありえない。だが、明菜は一歩も引かない。やむなく藤倉が折れてミックスをやり直した。関根は藤倉に尋ねた。

「これ、歌詞が聴こえないけどいいの?」

「明菜が『歌詞は歌詞カードを見ればいい』と言うんだ」

 1986年8月11日、のちに明菜史上最大の問題作と評される9thアルバム『不思議』がリリースされた。本作はオリコン初登場1位を記録。作品に対する評価は高かったが、藤倉の不安は的中した。

「歌が聴こえない。これは不良品ではないのか?」

 発売元のワーナーには苦情の電話が殺到した。

 このころ、明菜はサウンドメイクにも注文をつけるようになっていた。明菜の21stシングル『TATTOO』などで知られる関根は、そのプレッシャーで円形脱毛症になり、血尿も出たという。

「レコーディングをして、ダメ出し、録り直しをして、またダメ出し…。その繰り返しでした。明菜ちゃんから『この部分をもっととんがらせてほしい』とディレクター経由でオーダーがあって、ギターのカッティングを加えてみたり、ドラムを打ち込みにしたり。

『カッコよくなった!』と現場でどんなに盛り上がっても明菜ちゃんからNGが出ることがありました」(同)

 明菜には明確なビジョンがあり、表現したい音があった。

「明菜ちゃんはアイドルではなくトップアーティスト。藤倉さんも僕も、明菜ちゃんはレディー・ガガだったと認識しています」(同)

 1989年7月11日、明菜は近藤真彦の自宅で自ら左腕を切った。幸い一命を取り留めたが、衝撃的なニュースは日本中に大きな影を落とした。

 1990年春、関根が所属する作家事務所「フィアノット」のクリエイターたちは、明菜を元気づけるために、新曲を作ることにした。

「作詞は許瑛子(きょ・えいこ)さんが中心になってサウンドプロデュースは僕が担当しました。事務所にはスタジオがあったので、みんなでほぼ完璧なデモを作ったんです。全部で12曲ほど録って、許さんがデモに『Gazer』という仮タイトルをつけました」(同)

 明菜はその中から25枚めのシングルとして『水に挿した花』を選んだ。オリコン初登場1位。2022年11月現在、明菜が1位を記録した最後の作品である。

『紅白』で豪華衣装をまとい大ヒット曲『DESIRE』を歌う(1986年撮影)

 音楽プロデューサーの川原伸司は、自身が手がけた明菜の26枚めのシングル『二人静〜「天河伝説殺人事件」より』(1991年3月25日発売)を手に取り、語り始めた。

「このジャケット写真は中森さんが考えたもの。彼女は般若のお面を持っています。着物を左前で着ていて、これは死装束の姿。静かに死人に寄り添っているイメージ。作詞家の松本隆さんが『彼女の演出は素晴らしいけど、やりすぎなんだ』と言ってた」

 1990年、明菜を取り巻く環境は劇的に変化していた。デビューから苦楽をともにしてきた研音・ワーナーとの対立が表面化し、音楽活動が停滞し始めていた。

 ある日、ビクターのディレクター(当時)・川原が松本隆の家を訪れた。

「今、誰の詞を書いてるの?」

「元C-C-Bの関口誠人のソロ曲。聴いてみる?」

「これさ、中森明菜に合うんじゃない?」

「本当だ。明菜のイメージにぴったりだ!」

 川原は以前から、明菜の個人事務所の社長を務める友人の中山益孝から「明菜に合う曲があったら探してほしい」と言われていた。ビクターのディレクターがワーナーのアーティストを手がけるという異例の事態だったが、ともかく、明菜の新作が決まった。

 1991年、川原と明菜はスタジオで初めて対面した。

「中森さんが『3通り歌いますから、どれがいいか決めてください』と言って歌って。そして松本さんが『桜吹雪の中にいるようなイメージで歌ってみて』とリクエストして、計4本録った」(川原)

 川原は4テイクめを主軸にして歌を繋いでいった。

「中森さんから『ここだけは3テイクめにしてくれますか?』とか『ここのボーカル、勝手に変えたでしょう?』と指摘されたことがあった。耳がよくて音に敏感な人。彼女が優秀なボーカルプロデューサーであることは確かです」(同)

 1993年7月19日、川原はスタジオで明菜の到着を待っていた。歌入れを予定していたが、約束の時間が過ぎても明菜の姿はなかった。不審に思った川原が電話をかけると、受話器の向こうで明菜はすすり泣いていた。

「今、家に家宅捜索が入っているの…」

 明菜のスタッフが大麻所持の疑いをかけられ、四谷署の署員が明菜の自宅まで捜索していた。2人にはまったく身に覚えのないことだった。

 川原はスタジオを飛び出し、明菜の家に向かった。すでに建物を大勢のマスコミが取り囲んでいた。川原は車をガレージに入れ、部屋にいた明菜の手を引いた。

「さぁ、スタジオに行こう。こんな日はちゃんとレコーディングしたほうがいいんだよ」

 川原は何事もなかったように歌入れを始めた。

「ふだんどおりのことをやればいいと思った。彼女は音楽にふれることでバランスを取っていた。最初はピッチが不安定だったけど、最終的にはいいテイクが録れた。さすがだなと思った」(同)

 明菜は歌えば歌うほど、歌の主人公に憑依できた。

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「お前、明菜をやっているらしいな。それなら○○を別のメーカーに移籍させるぞ」

「訴訟に発展する可能性があるから覚悟しておけよ」

 一部の業界関係者が川原の自宅まで押しかけてきて「明菜には関わるな」と警告してきた。明菜が抱えていたさまざまなトラブルは、日を追うごとに増えていた。

「保守的な芸能界の古くさいルールだよ。社内で後ろを振り向くと、誰もいなくなっていた」(同)

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 明菜が表舞台から消えて5年がたとうとしている。初代ディレクター・島田雄三が明菜の気持ちを代弁する。

「明菜は体調さえ整えば歌いたいと思っていますよ。だって、歌が大好きだから…」

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