酒巻和男少尉

「日本軍による真珠湾攻撃の際、敵艦にいち早く攻撃を仕掛けて戦端を開いたのは、魚雷2本を抱えて湾内に潜入した5隻の特殊潜航艇でした。計10名が搭乗していましたが、そのうちの1名が私の父、酒巻和男という名の海軍少尉でした。父は開戦早々に米軍に拘束されたため、 “日本人捕虜第一号” と呼ばれています」

 そう語るのは、酒巻少尉の長男・酒巻潔さん。1949年に出版された酒巻少尉の手記が、昨年8月に『真珠湾攻撃 捕虜第一号/酒巻和男の手記』として復刻されたのを機に、父親の人となりや、彼が加わった真珠湾攻撃について再検証に取り組みはじめたという。

「私自身、軍人時代の父のことを知ったのは、この復刻版を読んでからでした。『俺のことを知りたければこれを読め』と手記を手渡されたとき、まだ私は中学生で内容が理解できずに放置していました」

 時を経て初めて読んだ手記から浮かび上がる父親の人生は、じつに数奇なものだった。なかでも江田島の海軍兵学校を卒業して少尉に任官されると同時に、特殊潜航艇を搭載する特務艦「千代田」に乗艦することになったことが、その後の運命を大きく変えることになる。

 特殊潜航艇(特潜)とは、近距離から敵艦に魚雷攻撃を仕掛けた後、速やかに現場を離脱するのが任務で、常に死と隣り合わせだった。

「父は特潜の搭乗員に選ばれたことを誇らしく思っていたようです。特潜の実戦への投入については、任務の危険性から開戦直前まで躊躇する意見もあったようですが、真珠湾攻撃には5隻が参加しました。艇長である士官と艦附の下士官の2名がペアで搭乗するので、選ばれた搭乗員は10名。父は、稲垣清二曹という下士官と組んでいました」

■収容所のことを “修養所” と心得る

 そして運命の1941年12月8日。午前1時30分(ハワイ時間7日午前6時)、空母「赤城」「加賀」「飛龍」などから183機の艦載機からなる第一次攻撃隊が、ハワイ・オアフ島に向けて発艦。真珠湾への攻撃が開始された。

 そして、連合艦隊司令長官名で発信された「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の隠語電文を通じて、事前に開戦日を把握していた5隻の特潜は、第一次攻撃隊に先行する午前零時42分、続々と真珠湾内に潜入して攻撃を仕掛けていたのだ。

 ただし、酒巻少尉が艦長を務める特潜には大きな問題があった。故障していたジャイロ(羅針儀)の修理が、出撃までに間に合わなかったのだ。結果、酒巻艇は敵艦へ接近する前に爆雷攻撃を受けて座礁。推進器や蓄電も限界に達した。

「父は、船体を米軍に引き渡すまいとして自爆装置に点火し、稲垣二曹とともに特潜から脱出。近くの島を目指して泳ぎましたが、失神状態になって途中からの記憶はないといいます。

 裸同然の姿で砂浜に倒れているところを米兵に発見され、ホノルル収容所に収容されました。これが、太平洋戦争での “日本人捕虜第一号” になったいきさつです。

 特潜に搭乗していたほかの9名は全員散華し、戦時中から “九軍神” と讃えられました。しかし父だけは、捕虜となって生き残ってしまったわけです。捕虜になることは、軍人として最大の恥辱とされていた時代です。 “酒巻和男少尉” の名は、その時点で日本海軍の歴史から完全に抹消されることとなったのです」

戦死した9名は “九軍神” として讃えられた(TopFoto/アフロ)

 戦争終結までの4年間、酒巻少尉は米国内の収容所を転々として過ごし、1946年1月に日本に帰国する。その収容所生活の間に、彼の心は大きく揺れ動いていた。

「当初、捕虜になったことを恥ととらえていた父は、尋問にあたった米軍の将校に『いっそ殺せ』と食ってかかったせいで、自殺を警戒されて厳しい監視下に置かれていましたが、1942年3月、ウィスコンシン州にあったマッコイ収容所に移送されたころ、死生観に劇的な変化が生じました。

 真珠湾での敗北も、政府への批判も包み隠さず報道する米国の自由のあり方、その資源の豊富さ、快活な国民性。かたや日本は目先の勝利に酔いしれ、有頂天になっている。その落差に愕然とした父は、 “アメリカ人に劣らない思慮のある日本人になろう” と決意します。

 それまで死を願っていたのが、生きようという姿勢に転じたのです。それからの父は、収容所を “修養所” と心得るようになりました。教養や精神の向上を図るための修業の場ということです」

 酒巻少尉は、煙草や菓子の代わりに筆記具や英語辞書、新聞や書籍を所望し、英語力を高めていった。やがて収容所には、ミッドウェー海戦などで捕虜となった海軍将兵らが合流することになるが、彼らもまた虜囚(りょうしゅう)の辱(はずかし)めを受けたことから、死を望んでいた。

 酒巻少尉はそんな彼らに、「生きることは恥でも罪でもない。生きて日本に帰り、祖国の再建に貢献することこそが大事なのだ」と説いては、軽挙妄動を戒めつづけた。

■「割腹して英霊に詫びよ」帰国後に非難の手紙が

「収容所で身につけた英語力を生かして、父はリーダーとして捕虜の処遇に関する米軍との交渉の席に着いていました。下士官や兵たちからの信頼も篤く、彼らを生きようとする方向へと向かわせたのは父だったんです」

 しかし4年間の捕虜生活から解放され、祖国への帰還を果たした酒巻少尉を待っていたのは、心ない仕打ちだった。「捕虜第一号帰国」と、新聞が派手に報じたこともあって、「割腹して英霊に詫びよ」といった非難の手紙が殺到したのだ。

 軍人として華々しく散るという選択肢を取らなかったことを卑劣漢ととらえるような風潮は、戦後間もない当時、まだ残っていた。

「その後、郷里の徳島で農業を営んでいましたが、そこに海軍兵学校で同期だった豊田穣さんが訪ねてきました。のちに直木賞作家となる人ですが、当時は新聞記者。彼の手引きで、父は捕虜時代の体験記を連載したのです。さらに、それがきっかけとなってトヨタ自動車工業に入社。1969年にはブラジルトヨタの社長として赴任することになります」

 まさに数奇な人生を送った酒巻和男元海軍少尉は、1999年11月、81歳で逝去。日米開戦80周年のいま、じっくりと振り返りたい足跡がそこにあるー。

写真・馬詰雅浩、TopFoto/アフロ、近現代PL/アフロ
取材&文・岡村青

(週刊FLASH 2021年8月17日・24日号)