日本3大ドヤ街の1つ、寿町。そこは横浜の一等地でありながら、120軒のドヤ(簡易宿泊所)が犇めく異様な空間だ。ノンフィクションライター・山田清機さんの著書『寿町のひとびと』(朝日新聞出版)より、2人の「ホームレス歌人」のエピソードを紹介しよう--。(第1回/全2回)

※本稿は、山田清機『寿町のひとびと』(朝日新聞出版)の第五話「沖縄幻唱」の一部を再編集したものです。

筆者撮影

■彗星のごとく現れ消え去った“ホームレス歌人”

「うちのお客さんに、歌を詠む人がいますよ」

ある帳場さん(簡易宿泊所の管理人)のひと言に私が飛びついたのは、第二の公田耕一を発掘できるかもしれないと思ったからである。

公田耕一とは、2008年12月8日、『朝日新聞』紙上の「朝日歌壇」に文字通り彗星のごとく現れ、わずか9カ月のうちに二八首もの入選作を残して、2009年9月7日の入選を最後に、やはり彗星のごとく消え去った“ホームレス歌人”である。

通常、歌壇の入選作には投稿者の住所と氏名が記されるが、公田の名前には住所の代わりに「ホームレス」とあったため、この異名がついた。

朝日歌壇を舞台として公田の人物像をめぐるさまざまな推測が飛び交い、俄かにホームレス歌人ブームが巻き起こった。朝日新聞は数次にわたって「連絡求む」旨の記事を掲載したが、ついぞ公田が名乗り出ることはなかった。公田が投稿の足場にしていたのが、他ならぬ寿町だった。

山田清機『寿町のひとびと』(朝日新聞出版)

哀しきは寿町といふ地名 長者町さへ隣にはあり

ノンフィクション作家の三山喬は異様な執念を持って公田を追跡し、その一部始終を『ホームレス歌人のいた冬』(文春文庫)という一冊にまとめている。三山は自らホームレス生活まで体験して公田の居場所とアイデンティティーを突き止めようとしており、その筆致はノンフィクションというよりも、むしろ推理小説に近いものがある。

三山の追跡劇は、まさに公田のアイデンティティーの一角である公田という苗字の真実に迫る場面でクライマックスを迎える。その委細は『ホームレス歌人のいた冬』をお読みいただくとして、私にはどうしても三山に会って確かめたいことがあった。それは、なぜ三山がかくも公田という人物に惹かれたのか、その理由である。

■「たとえ食えなくても幸せなんだ」

ホームレス歌人のいた冬』によれば、公田の歌にはサルバドール・ダリの絵やジュリエット・グレコの歌に通じていた教養の痕跡が見て取れるという。それは、私が出会った何人かのドヤの住人のプロフィールとは、かけ離れたものだ。同時に三山のプロフィールもまた、寿町の住人たちのそれとは大きな乖離(かいり)がある。

昭和36年、神奈川県に生まれた三山は県立高校の頂点である湘南高校を卒業して、東京大学経済学部に進学している。卒業後は朝日新聞社に入社し、1998年(平成10年)に退職するまでの13年間を東京本社学芸部、社会部の記者として過ごした。ほぼ同世代である私から見れば、エリートの中のエリートと言っていい経歴だ。そんな三山が、なぜホームレス歌人に興味を抱いたのだろうか。

東京・板橋区内の喫茶店で三山に会った。

「自分自身が食うや食わずの状況に追い込まれて、ホームレスに近づきつつあったからです」

三山が『ホームレス歌人のいた冬』の取材を始めた当時、職安に通う身の上だったことは同書にある記述で知っていた。東大の卒業生が食い詰めることなどあり得ないように思うが、三山はなぜ、そんな事態に追い込まれてしまったのだろうか。

「98年の段階で、2017年におけるノンフィクションライターの状況に関する正確な情報を得られていたら、朝日新聞を退職する勇気は持てなかったでしょうね」

すでに人気稼業ではなくなったかもしれないが、大手の新聞記者は現在でも高給取りだ。それに引きかえ……とは同業者として言いたくないが、たしかに「2017年におけるノンフィクションライターの状況」は厳しい。

深い教養を持ち、おそらくはそれなりの社会的な地位も得ていながらホームレスに転落してしまった公田に、三山は自らの境遇を重ね合わせたのかもしれない。

「取材で出会ったあるボランティアの方が、公田のように短歌を詠んで認められるなんて幸せなことだよと言うのを聞きました。私も、こういう仕事ができる俺は、たとえ食えなくても幸せなんだと自分自身に言い聞かせようとしていた面があります」

写真=iStock.com/GentleAssassin
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/GentleAssassin

三山は公田に会って、「たとえホームレスでも、自己表現ができることは幸せだ」というひと言を、公田自身の口から直接聞きたかったのだろうか。

■こちら側から向こう側に落ちていった人

ところで『ホームレス歌人のいた冬』には、実に気になる場面が登場する。三山が、朝日歌壇の選者で公田の歌を高く評価していた歌人の永田和宏に向かって、読者が公田の歌に共感したのは、彼が自分たちと同じ「こちら側」から、路上という「向こう側」に落ちた人物だからではないのかと質問する場面である(57ページ)。

永田は、「あっち側、こっち側という表現は、僕は嫌ですね」と三山を一喝するのだが、この言葉に続けて、たしかに読者は「外部の同情すべき人物」としてではなく、歌壇というコミュニティーの「身内」(つまり、こちら側の人間)として公田と感情を共有した面があったであろうことを認めている。

正直な三山は、率直にこう言う。

「こちら側から向こう側に落ちていった人の話を聞けば、読者は『明日はわが身か』と思って興味を持つわけです。でも、ずっと底辺にいた人の話には、興味がわかないんですよ」

さらに三山は、こうした構図を私利私欲のために利用するわれわれのような職業は、卑しい職業だという批判を免れることはできない、とも言う。

「私は新聞記者をやめて南米でフリージャーナリストとして暮らしたあと、週刊誌の記者として事件や事故の取材をしていました。週刊誌の記者たちには人の不幸をネタにしている卑しい職業だという自覚がありましたが、新聞記者の多くにはそれがないのです。新聞社をやめた理由のひとつは、そこにありました」

帳場さんが紹介してくれた歌人は、果たしてこちら側と向こう側、どちらに属していた人物であろうか。

■やどかりは鍵のいらない宿を借り

帳場さんに教わった部屋番号が書かれた引き戸を開くと、老眼鏡をかけた小柄な老人が正面のベッドに腰をかけて待っていた。豊里友昌、昭和13年生まれの78歳である。

入って左手、ベッドの向かい側に置かれた丈の高いテーブルには、鉢植えの観葉植物がいくつか置いてある。鉢植えの周囲には造花のもみじの葉っぱが飾りつけてあって、殺風景なドヤの部屋のにぎやかしになっている。ブックエンドには『世界文学全集』の背表紙。入って右手の白い壁には風景写真のカレンダーが貼ってあり、エメラルドグリーンの海の色が鮮やかだ。

写真=iStock.com/Cappan
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Cappan

「私は沖縄の出身で、俳句や短歌や川柳をやります。沖縄は空と海はきれいです。時々思い出します」

耳の遠い豊里は声が大きい。こちらも耳元で大声で話さなくては伝わらないから、男ふたりが頬を寄せて怒鳴り合うような恰好になる。鉢植えの観葉植物はガジュマル、クロトン、テーブルヤシなど、いずれも沖縄に自生している植物だという。

豊里の歌はすでに『神奈川新聞』の歌壇に何首も入選しており、住所は寿町のある中区と表示している。

やどかりは鍵のいらない宿を借り 中区 豊里友昌

豊里は、現在の沖縄県うるま市で生まれている。故郷はダムの底に沈んでしまったというから、おそらくうるま市を流れる石川川の上流にある石川ダム周辺だろう。

夢に見し故郷の山変わらねど 里はダム湖の底となりけり

沖縄が返還されるはるか前に、豊里は現在の沖縄県立石川高校を卒業し、小学校時代から習っていた特技の算盤を生かして、那覇の平和通りにあった大越百貨店に就職している。仕事は経理事務である。

1957年に創業した大越百貨店は、沖縄を代表する小売店のひとつであり(70年に沖縄三越に商号変更をし、2014年に閉店)、豊里の言葉を借りれば「大越百貨店は、当時の沖縄の最高の就職先のひとつ」であった。

■逃げるように沖縄を出てきた

父親は県庁の役人で読書好き。『万葉集』をよく読んでいたという。

「私がさっぱり意味がわからないと言うと、いまにわかるようになるよーと笑っていました」

経済的にも文化的にも恵まれた生活を送っていたにもかかわらず、豊里は内地に渡りたくて仕方がなかったという。なぜか。

「家庭が面白くなかった。悪かった。同居していた兄が水商売をやっていた兄嫁とうまく行かなくて、酒ばっかり飲むようになって、家の中で喧嘩が絶えなかった。嫌気が差して、逃げるように家を出てしまったのです」

家を出る前、豊里はトヨタ自動車の季節工の募集チラシを目にしていた。プレス工の募集だった。応募して面接を受けにいくと、いとも簡単に内地へ行けることになってしまった。昭和42年、29歳のときである。ちなみに沖縄が返還されたのは1972年、昭和47年のことだ。

「那覇港から船に乗りました。15、6人の集団就職です。お袋と兄貴が見送りに来ました。甲板は人でいっぱいでしたから、私は上着を脱いでこうやって振って別れました」

上着の背景は、壁に貼られたカレンダーの写真のような、沖縄の青い空と海だっただろうか。

■原因は二日酔い

船は名古屋港に着いた。トヨタの寮に入ることになったが、それは沖縄では見たこともない近代的で大きな建物だった。寮生に用事があるとマイクで呼び出しがかかる。そんなシステムが豊里には驚きだった。食堂も完備していて、寮自体には何の文句もなかった。

仕事内容は募集要項の通り、自動車部品のプレス作業である。東南アジア向けに輸出する車の部品だと教えられたが、自動車のどの部分だかわからないまま、ひたすら「ガッチャン、ガッチャン」やった。しかし、プレスの仕事は経理専門だった豊里の性には合わなかった。

仕事の憂さを晴らすため、寮のあった豊田市ではなく、名古屋市の栄や広小路といった繁華街に飲みに行くようになった。これが躓(つまず)きの石になったと豊里は言う。

「沖縄では泡盛を飲んでいましたから、ビールは軽くて水のように思えて、グングン飲めてしまいました。でも、ビールの二日酔いは大変でした」

二日酔いが原因でいざこざを起こすようになったのか、いざこざが原因でさらに深酒をするようになったのか、どちらが先かわからないが、豊里は寮での人間関係をこじらせてしまい、それが職場にも影響するようになっていった。

「毎年沖縄で季節工を募集していたから、寮には沖縄の人がたくさんいたので、ついつい沖縄の方言でしゃべると、同じ部屋の人が『うるさい、日本語をしゃべれ』と言うのです。職場でもよく『日本語を話せ』と言われました」

やがて二日酔いで仕事を休むことが多くなり、職場に居られなくなった。那覇港を出てわずか一年後のことだった。

■ドヤは体を休める場所

トヨタの寮を出た豊里は、名古屋に出て解体工や鉄筋工として働くことになった。プレス作業同様肌に合わない仕事だったが、30歳を過ぎて事務仕事へ転職するのは難しかったという。酒量はますます増えていき、暑い日でも寒い日でもビールを浴びるように飲んだ。

4、5年を名古屋の飯場で暮らした後、手配師のワゴン車で神奈川県に運ばれて、やはり解体工や鉄筋工としていくつもの飯場を渡り歩いた。

写真=iStock.com/Lou Bopp
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Lou Bopp

手配師とは、建設現場や解体現場からの求めに応じて、寄場などで日雇労働者を集めては現場に送り込む存在である。自分たちは仕事をせずに労働者の日当の上前をはねるわけで、いま風に言えば人材派遣業ということになるが、それを非合法でやっている。かつて名古屋の笹島町には寄場があったというから、おそらく豊里はそこで手配師から仕事をもらっていたのだろう。

豊里は実に70歳になるまで、神奈川県内で飯場暮らしを続けていたという。飯場は大部屋が多かったから気が休まらず、よく眠れなかった。豊里は、少し金が貯まると気兼ねなく眠れるドヤに泊まりに行った。ドヤの部屋は簡素だが個室なのだ。豊里にとってドヤは堕ちていった先ではなく、むしろ体を休める場所だったのである。

友人を作らず、女性には一切ノータッチ。歌を歌うのは好きだったから、カラオケ屋へはよく行った。

「そもそも女性が苦手だったのかもしれませんが、飲むとモテました。裕次郎の歌なんか歌うと女の子が手を叩いて、注文もしないのにビールを持って来るのです」

■一度も沖縄に帰らず、酒の代わりに歌を詠む

飯場暮らしのさ中のことか、あるいは寿町に居着いてからのことか、尋ねても返事はなかったが、ある日、酒が原因で大立ち回りをやって留置場に入れられた。この穏やかそうな老人が、現場の同僚だけでなく、見ず知らずの人まで巻き込んで殴り合いをしたというのだが、俄かには信じられないことだ。

「悪いんです。酒を飲むとクルっと変わるんです。この小さな体でなぜあんな力が出たのか、自分でも不思議です。あれは酒の力なのかもしれません」

身から出た錆のまじった涙をば 拭いて仰げば新春の富士

だが、この出来事は歌を詠むきっかけにもなった。ことぶき共同診療所の女医の勧めでアルコール依存症者を支援するNPO法人、市民の会寿アルクに通うようになった豊里は、同じ女医の勧めで自作の歌を『神奈川新聞』に投稿するようになったのだ。

「そのお医者さんから、あなたはお酒を飲んでいる限り長生きはできない。命が惜しかったら断酒会に入りなさいと言われたのです。断酒会に出て酒をやめて、酒の代わりに歌を詠むようになったのです。あの大酒飲みがこんなに変わったんですから、あのお医者さんは、私にとって神様みたいな人です」

豊里はトヨタの季節工に応募して沖縄を出て以来、一度も沖縄に帰っていないという。両親の逝去は兄が伝えてくれたが、葬式には行かなかった。もはや家族も親戚も死に絶えて知人はひとりもいないというのに、なぜか沖縄に帰ると白い目で見られるような気がして帰れないという。

豊里に自分の人生をどう思っているのかを尋ねた。

「社会の底辺で、どん底の生活をしてきて……でもいまは、最後の砦になるかもしれない場所に落ち着くことができて幸せです。安心。安らかな気持ちです。ここへ来て、本当によかったと思います」

沖縄には一度も帰らなかったというのに、豊里にはこんな入選歌がある。

ふる里に幾年ぶりか旅のごと来て夜を明かす月の浜辺で

※豊里友昌さんは、このインタビューの後に亡くなった。

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山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター
1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』 (朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』(朝日新聞出版)などがある。
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(ノンフィクションライター 山田 清機)