引退後、選手会の指導訓練課で新人指導に取り組む 撮影/伊藤和幸

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 普通の主婦だった高松さんが、ガールズケイリン復活の情報を得て競輪学校を受験したのは、なんと40代後半! いくつになってもチャレンジを忘れない姿勢はどうやって身についたのか―。

【写真】復活したガールズケイリンで、颯爽と走る高松美千代さん

ニックネームは鉄人(アイアンマン)

 誰ひとり観客のいない川崎競輪場で静かに耳を澄ますと、観覧席にこだまする怒号にも似た観客の聲が聞こえてくる。

─兵(つわもの)どもが夢のあと

 残り1周半を告げる打鐘が鳴り響くと、選手たちは必死の形相で風を切ってバンクを駆ける。1周400メートルのすり鉢状のバンクを囲む競輪場は、さながら古代の円形闘技場コロッセウムのようだ。落車を恐れず激しく身体をぶつけ合った時代、競輪は格闘技とも言われ、この中で数々の名勝負が生まれた。

 そんな男の世界に2012年、半世紀ぶりにガールズケイリンが甦った。20代の選手が多い中、その一期生の中に規格外のモンスターがいた。

 高松美代子、当時50歳。

 いくら年齢制限なしのガールズケイリンとはいえ、闘志むき出しで突っ走る競輪は、瞬発力が問われる真剣勝負。高松の掟破りのチャレンジに同期の選手からつけられたニックネームは“鉄人(アイアンマン)”。

 しかし彼女は、昔から自転車レーサーを志していたわけではなかった。

「サイクリング好きの主人に誘われて自転車に乗るようになったのは30代になってから。トライアスロンや300キロレースにも参加するうちにガールズケイリン復活の噂を耳にしました。競輪学校に受かれば、毎日好きなだけ自転車に乗れる。そんな魅力に惹かれて、試験を受けてみる気持ちになりました」

 そのとき、高松は48歳。家族も驚く無謀とも思える挑戦。

 しかし競輪の神様は、鉄人の背中を押す。

競輪選手を目指してからの毎日は、私の人生の中でいちばん輝いていたとき。

 そう呟く高松はガールズケイリン復活のシンボルとして、スポーツ界でも大きな注目を集める。しかしデビューの前も後も、高松の人生はチャレンジの連続だった。

泳ぎ続けた小学生時代

 ガールズケイリン復活の半世紀前。税務署に勤める父・赤坂福治と母・佳美の長女として、美代子は大阪府泉大津市に生まれた。

「父の兄弟のうち2人が陸上競技で国体に行き、父も仕事の傍ら、野球チームの監督を務めるなど、ウチはスポーツ一家。ひとつ上の兄もゴルフで国体に行き個人3位の成績を収めています。小さいころは兄の後を追いかけ、野球にもくっついて行きました」

 小さいころ、身体が大きく活発だった美代子は、男勝りで芯が強かったと現在、岐阜で歯科医院を開業する兄・壽彦(58)は話す。

「年子だったのでケンカばかり。駄菓子屋で売っているジュースの入ったガラス棒で頭を殴られ、出血。病院に行って縫ったこともありました」

 あふれるエネルギーをもて余していた美代子。堺にある私立賢明学院小学校に入学すると大きな出会いが訪れる。

 美代子は今も目を閉じると、海のように広いプールに綿菓子のような入道雲が鮮やかに浮かぶという。

 その光景を目にしたのは小学2年のころ。兄と一緒に初めて浜寺水練学校を訪れたときのことだった。

「ハマスイは50メートルプールのほかに25メートルプールがいくつも連なりまるで海のように広い。その中で競泳4種目から古式泳法、さらにシンクロナイズドスイミングといった競技のほかにも、水上安全法、救急法なども教わりました。私は毎夏、40日間休まず朝から夕方まで、昼食を食べる時間も惜しんで泳ぎ続け、そのおかげでびっくりするほど真っ黒になりました」

 1906年、堺市浜寺に海水浴場と海泳練習場が開設された際、開校されたのが浜寺水練学校(通称ハマスイ)。ここから“シンクロ界の母”と呼ばれる井村雅代さんはじめ、数々のオリンピック選手が生まれている。

「1時間半、立ち泳ぎをした後、クロールで1500メートルを泳がされる。そんなハードトレーニングも当たり前の毎日。小6のとき、40日間休まずハマスイに通ったおかげで体力がついたのか、秋の運動会で、念願のリレーの選手にも選ばれました。30代に入ってからトライアスロン、50代で競輪にも挑戦しましたが、このときの厳しい練習があったからこそやってこられたんだと思います」

 中学受験をしてプール学院中学・高校に進学後も、美代子は先生としてハマスイに残った。

「ハマスイは、中学生になると指導する側にまわり、トレーニングを続けることができるんです。中1の夏休みに、4万円の謝礼をもらったときはうれしかったな」

 そのかいあって高1のとき「日本泳法」シニアの部で全国2位にも輝いた。その後、短大まで美代子は夏になると子どもたちと朝から晩までプールで泳ぐ生活を送ってきた。

夢破れ、新婚早々ハードな介護生活へ

 その一方で高校時代は生徒会活動にも熱心に取り組んだ。高校1年と2年連続で学年代表を務めた彼女は、高校3年のとき生徒たちによる選挙で、生徒会長にも選ばれている。

 後に競輪学校でも生徒会長を務めることになる美代子。“鉄人”と呼ばれる鋼のメンタルとキャプテンシーは、高校生のころから養われていたに違いない。

 実はこのころ、美代子には将来叶えたい夢があった。

「小学校2年生のとき、ドラマ『アテンションプリーズ』(TBS系)を見て、ひそかにキャビンアテンダントになる夢を抱いていました。短大に進学してからは、“CA一直線”でしたね」

 1970年の夏から放送されたドラマ『アテンションプリーズ』は、女優・紀比呂子演じる断トツ劣等生のヒロインが、キャビンアテンダントになる夢に向かって挫けず努力するスポ根ならぬ“職業根性ドラマ”。

 当時の女子たちを熱狂させ、このドラマに憧れてキャビンアテンダントを目指す女性も急増。社会現象にまでなっている。

 ところが現実は厳しかった。

「全日空は二次選考、日本航空は最終選考までいきましたが、結局、外資系も含めて全滅。CAになることしか考えていませんでしたから狭き門とはいえ、ショックでした」

 就職浪人は許されなかった当時、美代子は母校・賢明学院で事務職として働きながら通信教育で教員免許を取得。小学校の先生になる決心を固める。

 そんな矢先、美代子の運命に新たな出会いが訪れる。

 夜は小さな英会話スクールでバイトしていた美代子。彼女の前に現れたのが、7歳年上の慶応大学出身の素敵な男性、高松繁男さん。

「英会話スクールのクリスマスパーティーで紹介され、彼の背が高くて優しそうなところに惹かれ、付き合うことに。休みの日に彼の趣味のロードバイクを借りて、2人で奈良までサイクリングしたのも懐かしい思い出です」

 年の離れた相手との結婚に両親は反対していたものの、2人は夫が30歳になる1985年に結婚。美代子は大阪を離れ、東京・蒲田で夫の両親と同居することになる。

「主人に『一緒に住んでくれる?』と言われ深く考えずに同居に踏み切ったものの、70代の義理の父は半身不随。夫の姉の協力のもと、交代でお風呂に入れるなど、戸惑うことばかりでした」

 何不自由なく育った美代子が、いきなり大正生まれの舅・姑と同居。戸惑いを覚えるのも無理はない。しかし、驚くのはまだ早かった。

「ご飯をガスで炊き、炬燵は練炭で温める。しかも洗濯機は外置きだから、冬の洗濯はTシャツが凍るほど寒い。そして布巾はお古の服で縫ったお手製などなど、高松家はまるで子どものころに見たホームドラマの世界のようで、驚きの連続でした」

 実家に帰省した折、母・佳美にその話をしたところ一計を案じてくれた。

「『お父さんがゴルフの景品でもらってきた。実家では使わないから』と理由をつけ、こっそり炊飯器を買ってもらい、ガスや蒸し器を使う生活からやっと解放されました。義理の母は嫁入り道具で持ってきた電子レンジを初めて見て『なにこれ!?』と目を丸くしていましたよ(笑)」

 義父の世話に明け暮れ、家にいることの多かった美代子の義母は、自分で切符も買えないような超アナログ人間。しかし、そんな義母との暮らしは、面白くもあった。

「義母はにんじんの皮からねぎの青いところまで食材は全部使い切る。20代でおばあちゃんの知恵袋がすっかり身につきましたね」

 しかし子育てでは、姑と意見がぶつかることもあった。

「結婚の翌年、長女・加奈を無事、出産。いよいよ教職に就こうと考えていた矢先、『繁男や子どものご飯が作れないようなら働いてもらっちゃ困る』と言われ、諦めました」

 しかし何があってもポジティブなのが、美代子の流儀。

「嫁いでから、たまに実家で顔を合わせても僕には愚痴ひとつこぼさない。親の反対を押し切って結婚したので、弱音は吐きたくなかったんでしょうね」(兄の壽彦さん)

毎日欠かさず32キロ、ママチャリで爆走

 そんな中、美代子は泳ぐことだけは、やめなかった。

「マタニティースイミングに通い2人目の娘・加帆が生まれてからも、週2回は義母に娘たちを見てもらい、2時間みっちり泳いでいました」

 美代子が常にポジティブでいられたのは、泳ぐことが源。このルーティンがなかったら、のちに芽生える自転車競技への夢も見ることはなかったかもしれない。

 美代子が毎日、自転車に乗るようになったのは、平成2年。4歳になった長女・加奈の小学校受験がきっかけだった。

「評判のよかった幼稚園に通わせるために、電車移動だと回り道になることから、片道5キロの道のりを20分かけて幼稚園まで自転車に乗せて送り迎え。電車に比べてストレスもなく快適でした」

 と話すが、自転車に乗るのは姉・加奈だけではない。1人で家に置いておけない妹・加帆も前に乗せるのだから、3人の体重を合わせるとなんと100キロ近く。

 しかも電動自転車のないこの時代に、ママチャリでほぼ毎日20キロ。雨ニモマケズ、風ニモマケズ、送り迎えをしていたというのだから驚く。

「走るコースを変えると、春には菜の花や桜。秋には秋桜や彼岸花など季節を感じられる。走っていて娘がセキセイインコを見つけて、しばらく飼ったこともありました」

 季節を愛でながら走る。

 これが1年や2年の間なら楽しめるかもしれないが、長女の卒園後、今度は次女を乗せて片道8キロ、2往復する日々が始まった。毎日欠かさず32キロ。この距離は、山手線を1周する距離だ。

 こうした生活が足かけ7年間続き、美代子のママチャリによる走行距離は、のべ4万キロ。これは驚くべきことに、地球1周分の距離に匹敵するという。

「おかげさまで、2人とも志望校に合格できました。今から思うと、この送り迎えの時間が、私と娘たちの貴重なコミュニケーションの時間でもありましたね」

 2人の娘が小学校に上がると、余裕ができた美代子は地元の水泳教室で再び教えるようになる。そんなある日、

「成人クラスの生徒さんから『トライアスロンはいいよ』とすすめられ、興味を持ったんです」

 20歳のころ、トライアスロンをやってみたいと思っていた美代子の心は疼いた。

300kmレース、途中で爆睡するも女子トップ

「水泳はできる。次は走ってみようと思い立ち、休みの日には自転車で伴走する娘たちと多摩川土手のハーフ(20キロ)コースを走るようになりました」

 夫と自転車に乗って走るようになったのもこのころ。

 しかし、まさか自分が本格的にトライアスロンや自転車のロードレースにのめり込んでいくとは、このころはまだ思ってもみなかった。後に師匠と呼ぶことになる窪田公一さん(61)と出会ったのは、地元のスポーツクラブ。

「クロールで何往復も休まず泳ぎ続ける女性がいて、しかもスピードが恐ろしく速いから、誰もそのレーンに入っていけない。もうおしまいかなと思ったら、仕上げにバタフライで30分、颯爽と泳いでいました」

 と20年ほど前の美代子との出会いを明かす窪田さん。 

 サイクリングパンツの日焼けの痕がクッキリ残るカモシカのような脚を見て、

「トライアスロン、やってますか?」と思わず声をかけた。

「窪田さんも所属するサイクルショップのクラブチームを紹介してもらい、土日になると大井埠頭の周回コースをついて走るようになりました」

 窪田さんは高校・大学と自転車部に所属。アマチュアの大会で総合優勝を飾ったこともある本格的なロードレーサーだ。

「当時の美代子さんは、サドルの正しい位置やペダルの踏み方もわかっていないくらいの初心者でしたが、ポテンシャルが半端なかった。行き先を告げずに蒲田から出発し、いきなり相模湖まで山あり谷ありの行程往復150キロを走りましたが、ギブアップすることなくついてきましたから」(窪田さん)

 それから美代子は、週末になると窪田さんたちと奥多摩1周150キロ、三崎往復160キロと、気がつけば毎週100キロ以上、自転車で走り込むようになっていた。

「もともと水泳をやっていたから肺活量がある。走り方を覚えたらぐんぐん速くなり、一緒に走っても高松さん(ご主人)はついてこられなくなりましたね」(窪田さん)

 日進月歩。日に日にめざましい成長を遂げる姿を見た窪田さんは、本格的な練習を始めて半年足らずの美代子を日本で最も歴史のあるロングライドイベントに誘う。

 それは高尾山から相模湖畔を回り、塩尻峠を越え白馬を抜け糸魚川に至る「東京-糸魚川ファストラン」。不眠不休で300キロを走破する過酷なレースだが、美代子は夫の大反対を押し切って出場を決意する。

「スタートは早朝の5時。家事や食事の支度に追われ、一睡もせずに出発した私は、およそ200キロ地点で猛烈な睡魔に襲われました」

 そのときの様子を窪田さんは鮮明に覚えている。

「北アルプスの山々が聳える川沿いを走っていると、後ろから『もうダメです』という声が聞こえました。慌てて振り向くと、美代子さんは自動販売機でコーラを買い飲み干すと、そのまま仰向けに寝て20分間、爆睡。ピクリとも動きませんでした」(窪田さん)

 そうしたアクシデントに見舞われながらもおよそ11時間でゴールした美代子のタイムは女子選手の中でトップ。

 翌年は、タイムを30分以上縮め、気がつけば「東京-糸魚川ファストラン」8回優勝の快挙を達成したのである。

「4連覇したころから、もう僕もついていけず、美代子さんは実業団のトップクラスの選手たちと練習していました」(窪田さん)

 自転車レースで“師匠越え”を果たした美代子。

「日本スポーツマスターズ自転車競技大会」では、2006年から2010年まで5連覇を達成するなど、自転車競技で一目置かれる存在となっていく。

 しかも当時、彼女は念願叶って小学校の臨時教員の仕事にも熱心に取り組んでいた。

「主に小学校の算数の授業を受け持った高松さんは、まじめで几帳面なしっかり者。態度の悪い子どもがいると担任の先生と相談しながら指導するなど熱い人でした。給食の時、牛乳にプロテインを入れて飲んでいたのを今でも覚えています」

 と小学校教諭の宮田千恵さんは、当時を振り返る。

50代を目前に最大級の挑戦

 ガールズケイリン復活の噂を耳にしたのは、川崎競輪場の愛好会に参加していたときのことだった。

「ロードレースで勝つためには、最後の200メートルが勝負。そこで競輪選手の指導のもと、バンク練習に取り組むと効果はてきめん。バンバン勝てるようになりました。そんなとき、ガールズ復活を知り、挑戦したいという思いが募りました」

 かつて1949年から行われていた「女子競輪」は、人気の低迷により、1964年に廃止。ところが2012年ロンドン五輪から「女子ケイリン」が正式種目に採用されるのを機に「ガールズケイリン」も2012年7月に復活することが決まった。

「家族もまさか合格するとは思っていなくて、驚いていました。長女に『これまで家事を完璧にやってくれた。お母さんの好きなことをやらせてあげたい』と言われたときは、うれしかった」と目を潤ませる美代子。

 師匠の窪田さんは、年齢的なことを考えても「やるなら今」と背中を押した。しかしご主人の胸中は複雑だったと当時を振り返る。

「高松さんは当時、一部上場企業の部長。合格が発表されると会社中に知れ渡り、気まずい思いもしていたようです。競輪・イコール・ギャンブルのイメージがありましたから」(窪田さん)

 35人の合格者の平均年齢は、26歳。親子ほど年の離れた49歳を迎える美代子に10か月に及ぶ警察学校並みの厳しい寮生活が耐えられるのか。新たな試練が待っていた。

「受かったときは、私もうれしかった。競輪学校の生徒会長にも選ばれ、選手宣誓する姿もテレビなどで紹介され、『脱落するなよ』と心の中で祈っていました」

 と兄・壽彦さんも当時の思いを口にする。

「午前中は『スポーツ医学』『競輪の歴史』など学科の授業。午後からバンク練習や5キロサーキットを10周するなど過酷な練習が待っていました。みんなは『100万円もらっても2度と行きたくない』と言っていますが、私は家事から解放されて自転車だけに集中できる環境に満足していました」

 舅・姑のいる実家に嫁いで以来、家事や育児に追われる毎日を送ってきた美代子にとって、時間を自分のためだけに使えることに勝る喜びはなかった。

 そんな美代子を同期の篠崎新純選手は、驚きの目で見ていた。

「10時に消灯しても高松さんは3時には起きて自習室で勉強。そして5時から朝練も欠かしません。どんぶりご飯もペロリと平らげる。まさに“鉄人”。年齢を感じさせませんでした」

 しかし美代子は内心焦っていた。長距離を走ることには長けていても、バンクを走る競輪はやはり別ものだった。

「記録会の成績が貼り出されると下から数えたほうが早い。これまでの人生でそんな経験がなかっただけに惨めな思いも味わいました」

 卒業時の成績は、33人中19番目。「ここまできたら、やるしかない」という思いを胸に、美代子はプロの世界に足を踏み入れた。

注目のデビュー戦とヤジ

 2012年7月1日。平塚競輪場のスタンドは復活したガールズケイリンをひと目見ようと、大勢の観客が押し寄せ、スタート前からすでに大入り満員。

 その中には美代子の兄一家をはじめ、窪田師匠たち地元の応援団、さらに小学校の教員仲間も美代子の登場を今か今かと待ち構えていた。

「いよいよ美代子さんの名前が呼ばれ、登場するまさにそのとき。敢闘門の段差に足を取られてひざをついてしまい、転倒扱い。仕切り直してレースは行われましたが美代子さんは6着に終わりました。『あの美代子さんでも緊張するんだね』と話したのを覚えています」(窪田さん)

 仕切り直しは、車券が売れなくなるから競輪界のタブー。

 当の美代子はやや不満げに、

「ちょっとひざをついただけなのに転倒による“落車扱い”は納得できませんでした」

 と話す。注目のデビュー戦がまさかの展開。これが祟ったのか、なかなか勝つことのできない美代子。いつしかファンの間では、『高松美代子は、いつになったら勝てるのか』といったヤジが飛ぶように……。

競輪学校の後輩たちが入ってきたらもっと勝てなくなる。川崎競輪場で指導していただいていた師匠の三住博昭さんにも『年内中に1勝しろ』とハッパをかけられました」

 チャンスが巡ってきたのは、高松競輪場で行われたその年の最終レース。しかも12月27日の最終日とまさに崖っぷち。

「バック(向こう正面)から踏み出したら4コーナーから突き抜けて、最後の最後に捲くって勝った。脚に余裕があると周りの状況がよく見え、位置取りや踏むタイミングもバッチリ。スタンドから『おめでとう』コールが起きたときは、泣きそうになったけど『私の競輪人生はこれから始まる』と思って自分自身を鼓舞しました」

 初勝利の喜びもつかの間、美代子は3日間のレースを1か月のうち、2回から3回戦う生活に身を置いた。

 しかしプロの水にも慣れてくると、美代子は地方遠征が待ち遠しくてたまらなくなっていた。レースの前後に各地のお城や観光地を訪ね、温泉に浸かり、名産品に舌つづみを打つ。

「中でも松山がお気に入り。道後温泉に浸かり、鍋焼きうどんや鯛めしを食べ、松山城に行くのはお約束。レースの前日に金比羅宮の石段を上って筋肉痛になってしまったことも今となっては懐かしい思い出です」

 ともに旅したことのある同期の藍野美穂元選手は、

「富山競輪の翌日、酒蔵巡りをしてお寿司を食べたり楽しい思い出がいっぱい。競輪学校のころ、成績がギリギリだった私を高松さんはいつも励ましてくれました。私も将来は、ああいうお母さんになりたいな」

スタミナも向上心も鉄人級

 レースを離れると同期の選手たちを温かく見守る母の顔を見せる美代子。だが、50歳を迎えた美代子に後はなかった。

「レースが終わったら、高松さんは競輪場のビデオのある部屋に駆け込み、悔しそうに自分のレースを見直していました。それだけでは飽き足らず、開催指導員さんにアドバイスをもらい熱心にメモを取る姿が印象的で、私もそうやって勉強するようになりました」(同期の篠崎選手)

 レースがないときも、朝6時半から川崎競輪場で周回練習。7時から9時まで師匠・三住博昭グループのバイク練習をこなすと一時帰宅。午後からもトレーニングルームにこもって、ひとり黙々と練習に取り組んだ。

 そのかいあって2013年8月4日に、熊本競輪場で3勝目をマーク。これはガールズケイリンにおける最高齢勝利記録(51歳2か月)だ。しかし、この勝利を境に美代子はまったく勝てなくなってしまう。

 さすがの美代子も焦っていた。

「2014年から男子同様、登録審査制度が導入され、レースにより得られるポイントにより、成績不振の選手は強制的に引退させられてしまうんです」

 だから、練習を1日でも休むのが怖い。 美代子の中で、そんな強迫観念にも似た思いが芽生えていた。

 だが、全盛期こそ、毎日200キロ走って脚力を鍛える競輪選手もいるが、体力の衰えを感じると選手はみな、練習方法を変える。

 ガールズケイリン界の“鉄人”にも変化が必要だったのかもしれない。

 2016年7月、そんな美代子をアクシデントが襲う。前橋のドーム競輪でもらい事故から落車。頭を打って救急車で病院に搬送された。

「首の第一頸椎を2か所骨折。打ちどころが悪かったら、半身不随になる可能性もありました。これまでも何度か落車して入院したことがありましたが、これほどの事故は初めてのこと。しかも手術もできないので、じっと治るのを待つしかありません」

 大ケガをすると、怖くなって走れなくなる選手もいるのだが、美代子の頭を「引退」の2文字がよぎることはなかった。

─何が何でも復帰する。

競輪選手になることを目指してからの毎日は私の人生の中でいちばん輝いていた日々。復帰を目指して練習を重ねて、もう1度、あの緊張感の中に戻りたい。そんな思いでいっぱいでした」

突然の別れ、そしてラストラン

 美代子は3か月休むとケガを押してレースに出場。「引退」を回避すると年明け2月のレースから本格復帰するためにハードな練習にも打ち込んだ。さらに、迎えた新年の年賀状にも「2020年の東京オリンピックまでは頑張る」とメッセージを添え再起に懸けていた。

 しかし復帰を目の前にした2017年2月、思いもよらぬ悲劇が美代子を待ち受けていた。

「次女の結婚が決まり、両家の顔合わせを明日に控えた土曜日のことでした。練習から戻ると家の留守番電話に『主人危篤』のメッセージが何件も入っていました」

 この日、夫・繁男さんは羽田空港近くの天空橋のあたりまで自転車で出かけ、鳥居の袂でひと休みしていたところで倒れ、救急車で病院に運び込まれたという。

「主人は毎朝、血圧を測りノートにつけるなど、健康にはとても気を遣っていました。ですから倒れたと言われてもまったく現実感がありませんでした」

 しかし、夫・繁男さんは翌日の昼過ぎ、意識が戻ることもなく息を引き取る。

「死因すらわからず亡くなってしまった。人が死ぬのはこんなにあっけないんだ」

 現実感がないから、淡々と事実を受け入れるしかなかった美代子。その思いは娘たちも同じだった。しかし夫を亡くしたことで美代子の現役復帰に兄・壽彦が強く反対を唱える。

「夫が亡くなり、もし私がまた事故にでもあって亡くなったら、子どもたちはどうするんだと、葬儀の日に言われました」

 夫・繁男さんが亡くなったことで急に死を身近に感じるようになった娘たちからも「引退」してほしいと言われ、美代子の心は揺らいだ。

「引き際が大切。退く勇気を持ってほしい。このままやって引退に追い込まれるより、今なら山口百恵のように華々しくやめられると私は美代子に話しました」(兄・壽彦さん)

 確かに練習ができないまま、復帰して勝てるほど競輪は甘くはない。

◇  ◇  ◇

 2017年3月26日。千葉競輪場で行われた第5レース。大勢の仲間たち、友人、家族の見守る中、美代子は54歳のラストランを飾った。

「くしくも私の出走時間は、夫が息を引き取った12時41分。夫も見ていてくれたのかもしれませんね」

 生涯成績は323戦してわずか3勝。だが、この勝ち星こそ美代子にとっては遅れてやってきた青春の勲章に違いない。スタンドからも、「夢をありがとう」と叫ぶファンの声がこだました。

「身体がボロボロになってやめる選手もいる中、無事に終われてよかった。勝負師の顔が今ではすっかり優しくなりました」(同期・藍野元選手)

 しかし美代子は、引退の翌々月から選手会の指導訓練課で競輪選手の新人研修を取り仕切るなど精力的に仕事に励んでいる。

「産休問題など、ガールズケイリン特有の課題もあり、今も選手にとってはなくてはならない存在。生徒会長だったころのキャプテンシーをますます発揮してほしいですね」(同期・篠崎選手)

 2020年まで現役でいることはできなかったけれど、今も遅れてやってきた青春の真っただ中に美代子はいる。

取材・文/島右近(しまうこん) 放送作家、映像プロデューサー。文化・スポーツをはじめ幅広いジャンルで取材執筆。ドキュメンタリー番組に携わるうちに歴史に興味を抱き、『家康は関ヶ原で死んでいた』上梓。現在、忍者に関する書籍を執筆中。