今季からウラディミール・バレンティンは、複数の守備に就く可能性がある。バレンティンは沖縄・浦添で行なわれているヤクルトの春季キャンプ地に、ファーストミットを持って登場した。過去6シーズン、日米通算546試合に出場したバレンティンだが、実は外野以外のポジションを守ったことは一度もない。そんな彼が、30歳を迎える今シーズン、足への負担を減らすために新しいポジションに挑戦している。しかしながら、一塁でボールを受ける姿や、投手との連係プレイなど、実に楽しそうな表情が印象的だった。これを見る限り、ストレスなくキャリアチェンジをしているように見える。

 そのバレンティンだが、キャンプインできただけでも、幸せなことだった。今年1月、バレンティンはマイアミで別居中の妻に家庭内暴力(DV)を起こし、逮捕された。当初は、来日が遅れることはもちろん、日本に来られない可能性すらあった。だが、保釈金を払い釈放されたことで、キャンプ初日に間に合った。この決定が、再び彼のやる気に拍車をかけたのだった。

「みんなと一緒にキャンプを開始できることが、どれだけ大切なことか。というのも、ここではみんながチーム一丸となって物事を行なうことがルールなので、絶対に遅れたくありませんでした。初日からキャンプに参加することができて、非常に嬉しく思っています。今は野球に集中する時ですし、新しいゴールに向かって出発する気持ちでいっぱいです」

 バレンティンは、子どもの頃から愛した野球を奪い取られてしまうのではないかと、本気で心配したと告白した。

「この状況が続けば日本に戻れないのではないかと本気で思いました。僕は子どもの頃から野球に親しみ、野球選手の人生しか知りません。その大切なものがなくなりかけていたのです。だからこの問題に関して、とても熱心に対応してくれたスワローズ球団の方々には本当に感謝しています。ユニフォームを着た時、今まで以上に野球で頑張らなきゃと思いました。」

 波乱のオフを過ごしたバレンティンだったが、その一方で、もうひとつ忘れられない出来事があった。

 シーズン終了後、自宅のあるマイアミで1カ月の休養をとった後、母国のキュラソー島で本塁打の日本記録を達成したバレンティンの歓迎パレードが行なわれた。島の人口の約5分の1にあたる3万人もの人がパレードに来たという。なかでもバレンティンを喜ばせたのが、同島出身で現在、楽天でプレイするアンドリュー・ジョーンズからの祝杯だった。ジョーンズは、アトランタの自宅からプライベートジェットでパレードの主役であるバレンティンをマイアミまで迎えに行き、そしてキュラソーへ飛んだ。

 バレンティンより7歳年上のジョーンズは、バレンティンにとっての憧れの選手だった。バレンティンが14歳だった1998年、ジョーンズはアトランタ・ブレーブスで30本塁打を放ち、10年連続で獲得したゴールドグラブ賞を初めて受賞した。その後、2009年にアメリカン・リーグ西地区でライバル(※)となった時から交流が始まった。ジョーンズが昨年から楽天でプレイするようになり、ふたりの仲はより深まった。

※2009年、バレンティンはシアトル・マリナーズ、ジョーンズはテキサス・レンジャーズでプレイ

 49年ぶりの大記録達成に驚きと敬意の念を抱いたのは、同島出身のスーパースターだけではなかった。イチローもそのひとりだった。イチローバレンティンは、かつてシアトル・マリナーズで3シーズン一緒にプレイしていた。その当時のバレンティンは、イチローがよく見たような、自分の才能を発揮できずにメジャーとマイナーを行ったり来たりしている若手選手だったが、イチローはその才能を高く評価していた。だから、バレンティンが日本で才能を開花させたことは、イチローを感動させた。

「日本では、カウント3−1とか2−0のバッティングカウントでも変化球でストライクを取りにくる。そこで『何だ、日本の野球は』と思う選手は、絶対に前に進めない。バレンティンの場合は、ちゃんとそれを受け入れて、そういう野球があるということを理解してプレイしていたのではないか。そこは技術とは関係のない性格によるものだろう。ある段階から先に進めるかどうかはそれを持っているかどうかで大きく分かれるのではないか」

 バレンティンはにっこりしながら、元チームメイトの言葉に耳を傾けた。そして、この3年間でどのように日本の野球に対応してきたかを次のように語った。

「1年目は、イチローが言うように、いつもアメリカ的な待ち方をして、カウント3−1や2−0の時は直球を待っていました。しかし、日本の投手はそういうカウントでスライダーなどの変化球を投げてきたのです。最初はすごく戸惑いましたし、腹が立ったこともありました。その結果、ホームランは31本打てましたが、打率は.228しか残せませんでした。この経験を生かそうと、何度も自分に『今、オレは日本にいて、日本の野球に順応しなくてはいけないんだ』と言い聞かせました。また、『成功するただひとつの方法は、この環境に慣れること』とも。それからは、3−0から変化球が来ても驚かなくなりましたし、集中して打席に入れるようになりました。来日2年目あたりから手応えを感じ、去年はさらに辛抱強く待てるようになりました。それにピッチャーがどのように投げてくるのかを学ぶようになり、より確率の高いバッティングができるようになりました」

 2011年、2012年と31本塁打のバレンティンだったが、昨年は60本と飛躍的に数字を残した。注目すべきは、ホームランを量産する一方で、三振率が減少していることだ。

2011年 555打席中131三振(三振率23.6%)
2012年 422打席中92三振 (三振率21.8%)
2013年 547打席中105三振(三振率19.2%)

 この数字に関して、誰からのアドバイスがあったのかと聞くと、バレンティンは次のように答えた。

「私自身です。ちょっと頭がいいところがあるでしょ。マイナーリーグにいた時も同じだったんです。ホームランも打ちましたが、同時に三振がすごく多かった。とにかく、三振を減らしていけば、もっといい打者になれると思っていました。自分の目標として毎年、三振を減らすことを心掛けていました」

 バレンティンの言葉通り、マイナー時代、三振を減らしていたのは確かだった。初めて100試合以上プレイしたのが、2005年のシングルAのインランド・エンパイヤーだった。

2005年 539打席中160三振(三振率29.7%)
2006年 522打席中140三振(三振率26.8%)
2007年 544打席中105三振(三振率19.3%)

 だが、メジャーでは三振を減らすことができなかった。その理由をバレンティンは次のように語った。

「私はまだ若かった。でも、言い訳はしません。メジャーでプレイしていた時は、まだいろいろな部分で成長しきれていませんでした。私が思うに、対応力を上げていくには、毎日プレイする必要があると思うんです。どの選手もそうだと思うのですが、1週間のうち、1、2回プレイするだけでは難しい部分があります。特に私は、毎日プレイしなければいけないタイプの選手だと思っています。そのリーグに慣れるためには、数試合でも間が空いてしまうと、私はダメなのです。その点、ヤクルトでは毎日試合に出ることができました。とても幸せなことですし、これによって対応できるようになりました」

 来日3年目の2013年、記録的なスピードでホームランを量産したバレンティン。初めて日本新記録の56本塁打に届くのではないかと思ったのは、8月下旬に広島マツダスタジアムで47号、48号を放った時だったという。しかし、50本に到達した時、思ってもいなかった試練が待ち受けていた。

「どこに行っても、記録の話題で持ちきりでした。ファンや記者に追いかけられることはある程度予測していたのですが、クラブハウスや自宅にまで押しかけられるとは想定外でした。精神的にきつかったですが、その度にチームメイトが励ましてくれてくれ、自宅に帰れば日本に来ていた母親が応援してくれました。それらのサポートに非常に感謝しましたが、正直、プレッシャーに押し潰されそうでした」

 ある友人は、バレンティンにこんなことを告げた。「外国人選手が本塁打の日本記録に近づくと、ピッチャーはまともに勝負してこない」と。そのいい例が、タフィー・ローズ(元近鉄)やアレックス・カブレラ(元西武)だった。しかし、バレンティンはプレッシャーを乗り越えるため、イチローの経験を思い出していたという。

 2004年、バレンティンが20歳の時、イチローはジョージ・シスラーの年間安打数記録を塗り替えた。当時、バレンティンはマイナーにいたが、イチローの記録更新に強い関心を寄せていた。なかでも、ピッチャーはイチローと勝負していたという記憶が、バレンティンを勇気づけた。

「彼らはイチローと勝負していました。だからこそ、イチローも記録に挑戦することができました。私も考えをポジティブにし、僕にも挑戦させてくれるだろうと。その時に、勝負してこないという心配はなくなりました。ポジティブに考えればいいのです。この考えに支えられました」

 投手たちはバレンティンと勝負し、バレンティンの集中力も日を追うごとに高まっていった。そして2013年9月15日、ついに歴史は塗り替えられた。

 今シーズン、バレンティンは4年連続本塁打王に挑む。日本中を熱狂させたホームラン狂想曲を再び見ることができるのか。4年目のバレンティンに注目したい。

ブラッド・レフトン●text by Brad Lefton