「まだ慣れないんですか?」年下社員の冷たい一言にうつむいた60歳男性。時給1,300円で働く〈再雇用なき定年後〉の現実
定年後も働き続けることは、いまや珍しい選択ではありません。生活費や住宅ローン、子どもの教育費、老後資金への不安から、60歳以降も仕事を探す人は少なくありません。しかし、同じ「働く」でも、現役時代と同じ待遇や役割が用意されているとは限りません。
「まだ働ける」と思っていた…定年後に待っていた再就職の壁
森田さん(仮名・60歳/男性)は、昨年、長年勤めた物流会社を定年退職しました。
本来なら、再雇用制度を利用して65歳まで働くつもりでした。ところが、会社の業績悪化や拠点再編の影響で、希望していた部署での継続勤務は難しくなりました。別の職種なら可能性はあると言われたものの、通勤時間や体力面を考えると続けられそうにありませんでした。
「定年後も当然同じ会社で働けると思っていたんです」
退職金はありましたが、住宅ローンの残債や妻の医療費、まだ独立前の次男への支援を考えると、すぐに完全リタイアできる状況ではありませんでした。
森田さんは、ハローワークや求人サイトで仕事を探しました。
しかし、60歳を過ぎてからの再就職は簡単ではありませんでした。管理職経験はあっても、現場で求められるのは即戦力の事務処理能力や体力、柔軟な勤務シフトです。
ようやく採用されたのは、商業施設のバックヤードで商品管理を行うパートの仕事でした。時給は1,300円。週4日、1日6時間勤務です。
「働けるだけありがたいと思う一方で、正直、現役時代との落差はありました」
厚生労働省『令和6年 高年齢者雇用状況等報告』では、65歳までの雇用確保措置を実施済みの企業は99.9%とされています。ただし、その内訳は継続雇用制度が多く、定年前と同じ仕事・賃金が保障されるという意味ではありません。
新しい職場では、森田さんより20歳以上若い社員が指示を出していました。入荷商品の確認、端末への入力、在庫棚の移動。覚えることは多く、端末操作にも戸惑いました。
ある日、処理を間違えた森田さんに、若い社員が淡々と言いました。
「まだ慣れないんですか?」
強い言葉ではありませんでした。けれど、その一言に森田さんはうつむいてしまいました。
「自分が“できない”人間になったような気がしました」
時給1,300円で働きながら気づいたこと
森田さんがつらかったのは、時給の低さだけではありませんでした。
現役時代、森田さんは部下を持ち、会議で判断を求められる立場でした。取引先からも「森田課長」と呼ばれていました。
しかし、定年後の職場では新人です。
分からないことがあれば年下の社員に聞き、ミスをすれば注意されます。これまで積み上げてきた経験が、そのまま評価されるわけではありませんでした。
「頭では分かっていたんです。でも、気持ちが追いつきませんでした」
「働く場所があること」と「納得して働けること」は違うのだと感じたといいます。それでも、仕事を辞める選択はできませんでした。
毎月の収入は、手取りで十数万円ほど。現役時代とは比べものになりませんが、家計には必要な額です。何より、家にいるだけでは気持ちが沈んでしまうこともありました。
「悔しいけど、仕事に行くことで生活のリズムは保てています」
少しずつ、森田さんは考え方を変えていきました。若い社員に教わることを恥だと思わない。分からないことはメモを取る。昔の肩書きを持ち込まない。
ある日、端末入力を一人で終えたとき、同僚から「助かりました」と言われました。その一言で、森田さんは少し救われたといいます。
「大きな役職じゃなくても、人の役に立つ場面はあるんだと思いました」
定年後の仕事は、現役時代の延長とは限りません。収入も、立場も、周囲からの見られ方も変わります。そこで傷つくこともあります。
しかし、働き続けることは、お金のためだけではありません。生活のリズムを作り、自分の居場所を持ち直す意味もあります。
「まだ慣れないんですか?」
その一言にうつむいた森田さんは、いまも同じ職場で働いています。
定年後の再出発は、華やかなものではありません。それでも森田さんは、時給1,300円の職場で、肩書きのない自分として働く日々を少しずつ受け入れ始めていました。
