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現存するポルトガル製モデルとして最古参

ポルトガル屈指のクルマの祭典、カラムロ・モーターフェスティバル。2025年の会場でとりわけ注目を集めた1台が、フォード・モデルAをベースにしたフェルコム・スペシャルだった。その理由は、単にボディが美しいだけではない。

【画像】ベースはフォード・モデルA フェルコム・スペシャル 同時代のスポーツ・モデルたち 全161枚

集結した多くの希少車を差し置いて、人だかりは別格。何しろ、それはポルトガル初の国産レーシングカー。現存する同国製モデルとしても、最古参だと考えられる。


フェルコム・スペシャル(1930年/ワンオフ・レーサー)    マヌエル・ポルトガル(Manuel Portugal)

遡ること1929年。ポルトガル北西部のポルトでフォード・ディーラーを営んでいたマノエル・メネレス氏は、自国で芽吹いたレーシング・コミュニティへ早々に参画した。欧州へ積極的に輸入された、1928年式フォード・モデルAが彼の手元にあった。

モデルAはモデルTの後継に当たり、当時は定番のクルマの1台。欧州仕様は税制へ合わせた2.0Lエンジンだったが、メネレスが所有したのは3.3L直列4気筒エンジンを積んだ北米仕様で、最高出力は40psが主張された。

オーバーヘッドバルブ化でパワーアップ

最高速度は架装されたボディに依存したものの、概ね100km/h以上に届き、速い部類に入った。だが彼は、2シーターの軽量ボディを自ら製作。ブガッティやアルファ・ロメオに対抗しうる、スポーツ・レーサーを目指した。

ただしモデルA用の4気筒エンジンは、L型と呼ばれるヘッドが載り、充分なパワーを引き出せていなかった。そこでメネレスは、ミラー社製のオーバーヘッドバルブ・キットをアメリカから取り寄せ、置換を試みた。


フェルコム・スペシャル(1930年/ワンオフ・レーサー)    マヌエル・ポルトガル(Manuel Portugal)

このキットを開発したのは、1920年代のアメリカでモータースポーツを席巻したハリー・ミラー氏。設計は友人のレオ・グーセン氏で、バルブをシリンダーブロック側面から燃焼点へ近いヘッド側へ移すことで、吸排気効率の向上による増強を叶えた。

メネレスのモデルAが、このキットでどこまでパワーアップしたのか記録はない。しかし軽いボディと相まって、レースでは侮れない競争力を発揮している。モデルAのシャシーは位置が高く、敏捷そうな容姿ではなかったとしても。

ブガッティやアルファ・ロメオに次いだ速さ

最初の舞台となったのは、1930年の第1回ランパ・ダ・ペーニャ・ヒルクライム。友人のエドゥアルド・フェレイリーニャ氏とともにエントリーしたメネレスは、ポルトガル北部の山脈に用意された4.8kmのコースで、クラス優勝を遂げている。

平均速度は、53.38km/h。初出場といえたポルトガル勢として、快挙と呼べた。


フェルコム・スペシャル(1930年/ワンオフ・レーサー)    マヌエル・ポルトガル(Manuel Portugal)

その年末には、ポルトで開かれたランサード・ド・ミンデロへ参戦。別名「フライング・キロメートル」と呼ばれたスピードトライアルで、ポルトとヴィラ・ド・コンデを結ぶ、2kmの公道で競われている。

ここでは、平均速度128.27km/hを記録し3位に入賞。ブガッティ・タイプ35とアルファ・ロメオ6C-1750に次ぐ速さで、独自マシンの名声を高めることに繋がった。

逆転で車高を下げたトルカ・メリー・シャシー

だがメネレスは、性能へ納得していなかった。エンジンの可能性は引き出されていたものの、フォードのベーシックなシャシーで、フランスやイタリアのマシンへ立ち向かうことは難しかった。そこで、トルカ・メリー社製シャシーでの一新が図られる。

今はなきトルカ・メリー社は、第一次大戦前に活躍したフランスの自動車メーカー。1911年の第1回ラリー・モンテカルロへ参戦し、優勝を果たした名門だった。


フェルコム・スペシャル(1930年/ワンオフ・レーサー)    マヌエル・ポルトガル(Manuel Portugal)

メネレスが選んだシャシーの詳細は不明だが、恐らく3.0L 4気筒エンジンを積んだモデル、15/25HP用だったのではと考えられる。更に彼は、車高を落とすためシャシーの上下を逆転。リアアクスルは、リーフスプリングの上側へマウントされた。

ステアリングコラムと3速MTはモデルA用のままで、ブレーキは前後に装備。ボディは、テールフィンを得たものへ新調されている。

レース直前に決められたモデル名は「?」

この改変で、フォード・モデルAと呼べない構成になったと考えたメネレスは、新たなモデル名を考案。レース直前に決められたのが、スペイン語で疑問符の「?」を表す、「ポント・デ・インターロガソン」だった。神秘性を持たせることが狙いだったらしい。

「?」へ生まれ変わったマシンが最初に挑んだのは、1931年初頭に開かれた、ヴィラ・レアル・サーキット初のイベント。ポルトガル北部に敷設された真新しい7.15kmのコースを、20周走り速さが競われた。


1931年のボアヴィスタを走るフェルコム・スペシャル ボディ側面に「?」が見える

完成直後のサーキットでも路面状況は優れず、表面には小石が浮き、走ると砂埃が舞ったようだ。しかしメネレスの友人、フェレイリーニャは143kmを走りきり、クラス2位でゴール。ポルトガル人へ、期待と誇りを与えたことは間違いない。

撮影:マヌエル・ポルトガル(Manuel Portugal)

この続きは、フェルコム・スペシャル(2)にて。