”豊臣秀吉”への信仰が篤い「大阪人」を懐柔するために江戸幕府が「道頓堀」に潜ませた仕掛け

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大阪のシンボル・大阪城を築いた豊臣秀吉。百姓の出自ながら天下統一を果たし、大阪のまちの礎を形づくったこの英傑を、大阪人は親しみを込めて「太閤さん」と呼び愛してきた。

「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」の句に象徴される知略家な一面を持つ武将、派手好きでコテコテな"大阪人気質”の元祖--。そんなイメージで語られがちな秀吉だが、その人物像は、実は時代とともに少しずつ姿を変えてきた。

大阪というまちの歴史とともに揺れ動いてきた「秀吉像」とは一体何なのか。その変遷を紐解く一冊『大阪人はなぜ太閤さんが好きなのか』より一部抜粋・再編集してお届けする。

【前編を読む】徳川家が「豊臣時代の痕跡」を抹消するために命じた「大坂城再建」の陰謀

大阪人を懐柔するための策

大阪のミナミにある道頓堀といえば、グリコの看板で知られる戎橋がかかるあの運河だ。私財を投じてこれを秀頼時代に開削したのが豪商・安井道頓である。安井は大坂の陣で豊臣方に味方したが、それでも幕府は運河の名前を道頓堀として顕彰している。これも大坂人を懐柔するためだと宮本はいう。

一方で、幕府は家康の権威を示すために現在の造幣局の地に東照宮を造営している。言うまでもなく、東照宮は神君家康を祀る神社。大坂のものは日光東照宮に匹敵する規模だったという。それでも大坂人の心は、徳川にはなびかない。

〈大阪人の心にひそかに巣くっていたのは豊国廟にたいする信仰であった。総じて長浜にしても、博多にしても、秀吉の建設した町ではどこでも、豊国神社の崇拝心が強いのである。権現さんにはあまり親しんでいない。(中略)江戸時代には徳川政権に反抗するものが、大阪だけでなくいたるところにあった。そういうものは太閤を大いにまつりあげていた。島津や伊達のような大名も豊国大明神をまつっていた形跡がある。もちろん表面は東照宮をまつっているが、ひそかに豊臣をまつって、レジスタンスをしていた〉(宮本前掲書)

豊国神社は秀吉を豊国大明神として祀る神社である。京都の東山に秀吉の死後、造営された。社領1万石、境内は30万坪にも及んだという。だが、豊臣家を打倒して権力を確立した徳川氏の御代になると御法度となるのは避けられない。豊国神社は豊臣家滅亡後に廃絶され、社殿こそ秀吉の妻だった北政所のたっての願いで残されたものの、一切の修理は許されず、朽ちるにまかせるありさまだった。

それでも町人は秀吉を慕い、大坂きっての参拝客を集めた大坂天満宮にはじつは豊太閤が合祀されていると噂したという。

「お奉行の名さへ覚へず としくれぬ」

幕府肝煎りの再建事業で復興を成し遂げた大坂は、全国の米の集積地として諸藩の蔵屋敷が置かれる「天下の台所」となる。夏の陣から70年後の元禄年間には人口が30万人を超え、京都を抜いて上方で最大の都市となった。

幕府の天領だった大坂には城主はおらず、幕府から城代が派遣された。城代に就くのは譜代大名に限られ、老中となる前のキャリアパスと位置づけられた。

大坂城の西の丸に城代の屋敷があり、大坂城の守衛だけでなく西国の外様大名らの監視を担った。初代の内藤信正が7年、2代目の阿部正次が21年と最初の2人こそ長く務めたが、それ以降は2、3年おきに交代し、江戸時代を通じて68人もの城代がいた。

旗本から任命された町奉行とともに大坂の統治にあたったが、2、3年おきの交代とあっては、町人らに「おらが殿様」と敬慕する感情は生まれてこない。

「お奉行の名さへ覚へず としくれぬ」

そう詠んだのは、大坂の薬種商の息子で、元禄時代を代表する俳人だった小西来山である。

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