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総務省が2026年3月24日に公表した「2020年基準 消費者物価指数 全国 2026年(令和8年)2月分」によると、生鮮食品を含む総合指数は前年同月比で1.3%上昇しました。一方で、2026年の春季労使交渉(春闘)の賃上げ率は3年連続で5%台を維持。私たちの暮らしは、どう変化していくのでしょうか。そこで今回は、東京大学名誉教授である経済学者・渡辺努さんの著書『インフレの時代-賃金・物価・金利のゆくえ』から一部を抜粋してお届けします。

【書影】物価高騰のなか、どうすれば賃上げできるのか?物価研究の第一人者が緊急提言。渡辺努『インフレの時代-賃金・物価・金利のゆくえ』

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最低賃金の引き上げはなぜ必要なのか

賃上げの企業間格差

2025年春闘の賃上げ率は5.25%と前年を上回った。2023年に始まった春闘での高水準の賃上げが3年連続となった。

2025年春闘の注目点は、賃上げが中小企業にまで広がるか否かだった。23年と24年の春闘は全般に高い賃上げになったとはいえ、中小企業は大企業との対比で見劣りし、大企業との賃金格差が拡大してしまった。25年は中小も4.65%と前年を上回り健闘した。大企業にはなお及ばないが差はかなり縮まった。

中小企業の賃上げを語る際の重要なポイントは最低賃金(最賃)だ。中小企業には最賃近辺の賃金で働く労働者が多いので、最賃が引き上げられれば中小の賃金も自ずと上がる。

賃金版「フォワードガイダンス」

政府はそこに注目し、最賃引き上げの新機軸を打ち出してきた。かつては、毎年夏にその年の最賃を決めるやり方だった。23年夏にその慣行を改め、その年だけでなく、将来にわたる最賃を首相が約束する方式を始めた。岸田首相は、当時約1000円(時給)だった最賃を2030年代半ばまで段階的に引き上げ、10年後に1500円にすると約束した。石破首相はこの計画をもう一段加速させ、1500円を2030年までの5年間で実現するとの意向を表明した。

最賃の先々の水準まで約束する意味はどこにあるのか。先々の水準が公表されていれば、賃上げ交渉の際に労使の目線が揃い、高い賃上げが実現しやすくなる。25年春闘での中小労組の健闘はその証左だ。一方、企業側は、中長期の経営計画を立てる際に、労務費がどの程度になるかの目途が立ち、労務費上昇を賄うべく生産性向上投資に取り組むなど、必要な手立てを前もって講じることができる。

金融政策の手法で「フォワードガイダンス」とよばれるものがある。「フォワード」は先々の、そして、「ガイダンス」は指し示すという意味だ。これは、中央銀行が将来の政策金利の水準をアナウンスすることにより経済をコントロールする手法だ。

例えば、経済がデフレ気味で本来であれば利下げで景気を刺激したいところだが、政策金利が既にゼロ%のフロアに達していて、それ以上の金融緩和(利下げ)ができない状況だったとする。しかし、この場合でも、先々の政策金利を低い水準(例えばゼロ%)に維持すると中央銀行がアナウンスすることにより、長い期間、例えば10年物国債の金利を下げ、それによって景気を刺激できる。これがフォワードガイダンスだ。

フォワードガイダンスはデフレ脱却に有効

最賃の先々の水準を約束することは、いわば賃金版の「フォワードガイダンス」だ。実は、このフォワードガイダンスは、人々の予想を望ましい方向に誘導する効果があるとの見方が、研究者の間で近年広がっている。

「将来、デフレ(=物価下落)が続く」という予想を人々が抱いているとしよう。放置すると、消費が萎縮し、デフレが本当に起きてしまう。常套手段は、中央銀行の金融緩和でデフレ予想を潰すということだ。しかし、しばらく前の日本がそうであったように、金利が既に下限であるゼロ%に近く、さらなる金融緩和が不可能ということがあり得る。


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ではどうすればよいのか。ここで登場するのが最賃だ。

例えば、岸田首相がそうしたように、今後一定のペースで最賃を引き上げていくと政府が約束したとする。その約束の下では、最賃だけでなくその周辺の賃金も同様に上昇していくだろうと人々は予想する。これは明らかに物価下落の予想と矛盾する。すると人々は、物価が下落するという予想がそもそも間違っているのではないかと疑念を抱き始める。このようにしてデフレ予想を潰せる。

賃金の「底」を創るというルーズベルト大統領の発想

机上の空論に聞こえるかもしれないが、たぶんそうではない。最賃がそうした効果を発揮した事例があるからだ。今から約100年前、大恐慌期の米国ではデフレをいかにして止めるかが最重要の課題で、その際に当時のルーズベルト大統領が活用したのが最賃だった。

当時米国では最賃制度に反対意見が多く、制度は確立されていなかった。しかし、激しく下落する賃金の「底」を人為的に創ることを狙い、反対派を押し切って最賃制度を新設した。このときの一連の施策はデフレ予想の払拭に決定的に重要な役割を果たしたと言われている。

現在の日本に話を戻すと、これだけのメリットが期待できるにもかかわらず、最賃引き上げに否定的な見方が少なくない。賃上げの原資確保に不安を抱く中小企業経営者が少なくないからだ。その根っこには、下請け企業の価格交渉力が弱く、親企業に対して賃上げ分の価格転嫁を言い出せないという現状がある。

政府はこの点を是正すべく、25年7月に下請法を改正した(26年1月から、新たに「中小受託取引適正化法(取適法)」として施行された)。新法の厳格な法執行により、中小企業と大企業の間のアンフェアな取引関係の是正を急ぐ必要がある。

わが国の最賃は国際的にみて低く、「労働者が健康で文化的な最低限度の生活を営む」という法の趣旨からしても、引き上げは必須だ。できるかどうかではなく、いかにして可能にするかを社会全体で議論すべきだ。

※本稿は、『インフレの時代-賃金・物価・金利のゆくえ』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。