「14歳、字を書けない私が『書く』喜びを手にするまで」朝野幸一さんインタビュー、「読み書き障害」当事者が社会に投じる一石

『14歳、字を書けない私が「書く」喜びを手にするまで』の書影
文字を読み、字を書くことに困難を抱えている人たちがいます。それは「読み書き障害」の当事者たち。読み障害は「ディスレクシア」、書き障害は「ディスグラフィア」とも呼ばれ、いずれも発達障害の一種とされており、読み書きに著しい困難を示しますがまだまだ知られていないのが現実です。そんな社会に一石を投じるように生まれたのが、『14歳、字を書けない私が「書く」喜びを手にするまで』(新潮社)。著者の朝野幸一さんはなぜ、本書を綴ったのか。お話を聞きました。(文:イガラシダイ 編集:笹川ねこ)
2010年、東京都下に生まれ、幼少期から中学時代までを過ごす。漢字を学ぶ頃から、文字を手書きすることが苦しい「書き障害」に悩み、小学5年生で障害と認定された。発達障害の症状があり、空気を読むこととうるさい環境が苦手。得意なことは読書と執筆。趣味はピアノとカメラ。
「読み書き障害」を知るための入り口に――「読み書き障害」に対する認知度がまだまだ低い中、「書き障害」の当事者として自身のことを記した本書には社会的な意義があると感じました。でも、一冊を書き上げるにあたって、苦しい思いはしませんでしたか?
私はそのあたりの感覚が非常にドライな人間らしくて、過去の自分は現在の自分とは全く異なる生き物として認識しているんです。だから、過去に経験したことを振り返る作業も特に苦しくなかった。親しい友人が奮闘しているさまを見つめ、書き留めていくような感覚に近かったと思います。
だから執筆自体は楽しかったんです。もちろん、上手く表現できないことで苦労はしましたけど、とにかく楽しかった。
――本書では、朝野さんが幼少期から大変な読書家だったこともわかります。これまで読書に親しんできたから、「書く側」に立つ経験に面白さを見出だせたのでしょうか?
それはあると思います。寺村輝夫の「ぼくは王様シリーズ」や宗田理の「ぼくらシリーズ」、浅田次郎や阿川佐和子のエッセイ、あとは有川ひろや池井戸潤などなど、私は幼い頃から実にさまざまな本を読んできました。それらを読んでいて面白い文章や文体に出合うと、心の中にあるスクラップブックみたいなところにストックしてきたんです。
今回、執筆にあたっては、そういった蓄積を駆使しました。先人たちの文章に影響を受けながら、私も面白いものを書いてみたい。そんな思いで向き合っていたので、楽しかったんです。
――本書は「読み書き障害」を知る上で入り口になるような一冊だと思います。
まさにそうあってほしいと願っています。まだまだ理解されていませんから。例えば、先日、この本についての書評がYahoo!ニュースに載ったんですが、コメント欄を見てみたら「スマホばかり触っているから、読み書きができないんじゃないか」というような意見が寄せられていました。でも「読み書き障害」のほとんどは生来発現するものだといわれていて、小中学生の約3%が該当するんです。人口でいうと約20万人の子どもたちが苦しんでいる。
それなのに、「スマホばかり触っているからだ」と言われてしまう。それはやはり、「読み書き障害」について正しい認識が広がっていないからなのでしょう。まだまだ理解が追いついていないんだな、と思いました。
左上は朝野さんが書き写した文字。パソコンと違い「コピー&ペーストなんてものはない」
――だから、まずは知ってもらう必要があるんですね。
そのためにこの本を書きました。教育現場での認知度は高まってきていると思いますが、それも充分ではない。本書でも触れていますが、学校の中には発見されていないだけの「隠れ読み書き障害者」が大勢いるのではないかと思います。
大学における当事者の割合は0.007%くらいだといわれているんですが、小中学生における割合からすると格段に低くなっていると思いませんか? もちろん、中には訓練によって「読み書き障害」をなんとか克服した人もいるかもしれませんが、一方では、障害によって進学そのものを諦めてしまう人が存在することの証左とも捉えられます。
教育の「合理的配慮」、どう捉えるか――「読み書き障害」によって進学を諦めてしまう子どもたちを減らすためにも、教育現場の合理的配慮が重要になりますね。
でも、どこまで配慮してもらえるのかは「学校がどれだけ寛容なのか」に左右されてしまいがちです。障害者差別解消法における合理的配慮は「建設的対話の上に構築されるものである」とされているんですが、この「建設的対話」というのが、現状ではうまくいっている例もあれば、あまりうまくいっていない例もあります。
配慮のために学校側に大きな負担がかかってはいけない、というのが合理的配慮の原則です。例えば、すでに忙しすぎる教育現場は、多忙を理由に合理的配慮を拒否できてしまうわけです。当事者が合理的配慮を受けられるかどうかは、学校側の対応に左右されてしまう、という問題があるわけです。
――「合理的配慮を申請された先生方へ」の内容は、ぜひ先生に読んでもらいたいと思いました。「専門家のような第三者を設置させたほうがいいのではないか」という提言もされていましたね。
「読み書き障害」の当事者と学校の間に立つような存在がいれば、アドバイスもできるでしょうし、適切に配慮されているかどうかの監査もできるかもしれません。とはいえ、私もまだ勉強中なので、参考程度に受け取っていただければと思いながら書きました。特別支援教育コーディネーターが助けてくれた、というような話も聞いたことがありますが、私のときにはそこまでその存在を感じることもありませんでした。語弊がある言い方にはなりますが、やはりまだ当たり外れがあるのだと思います。
なんにせよ、そういった未来への提言も含めたのは、本書をただのエッセイで終わらせたくなかったからです。ただのエッセイにしてしまうと、「こういう子たちがいるんだね」「可哀想だね」と思われるだけで、先に進んでいかない可能性がある。「知ってもらう」ことは大前提として、私はその先もみんなで考えていきたかったので、読者への問いを立て、現実的な問題点を挙げました。
3章「14歳だって考える」本文より
――あらためて、いま学校で学ぶ当時者として教育関係者に伝えたいことはありますか?
教育の目的とはなんなのか、を今一度考えてもらいたいんです。なんだと思いますか?
――難しいですね……。「生きる力を身につけること」でしょうか。
私は、究極的な教育の目的は、「子どもたちが幸せになること」だと思っています。それをふまえるならば、教育によって不幸になる子どもたちが出てきてはいけない。
例えば、『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮社)では、発達障害や知的障害によって困難を抱えているものの適切な支援を受けられず、道を踏み外してしまった少年たちのことが書かれています。もしかしたら彼らは画一化された教育にはついていけず、非行に走ってしまったのかもしれない。「読み書き障害」の当事者にも同じことが言えるかもしれません。努力だけではどうにもならなくて、勉強を諦めてしまう子がいるわけですから。
では、教育現場ではなにをすべきなのか。その答えがまさに合理的配慮だと思うんです。すべての子どもたちに同じ方法で勉強させることに固執するのではなく、一人ひとりの特性にあわせて配慮をしていく。それが子どもと学校、双方にとっての幸せにもつながってくるのではないか、と思います。
漢字の覚え方の例
矛盾を含めた「自分自身」を理解すること――「自分はみんなと違うのではないか」「どうして自分はみんなと同じようにできないのか」と悩んでいる子どもたちへのメッセージはありますか?
もしも、周囲との違いに悩んでいるとしたら、まずは自分はどんな人間で、他とどう違うのか、というところを考えてみてほしいですね。それは決して簡単なことではないかもしれませんが、自分を理解することは非常に重要だと思います。
私の場合は、やはり読書が有効でした。自分にどこか似ている人が書いた本を読んでみる。すると共感できる部分が見つかるでしょうし、それによって自分を理解することにつながります。また、逆に「私だったらこう考えるけどな」という部分にも気づきます。それは、「自分」が出ている意見なので、大切にしてもらいたいですね。あるいは、どんなことでも構わないので自分自身についてアウトプットしてみると、それまで見えていなかった自分の姿が見えてくると思います。今は紙媒体だけではなく、オーディオブックとかもあるので、とにかくいろいろな視点に触れてほしいです。
別に、見えてきた自分自身に矛盾があったとしても構いません。自分というのは必ずしも一つではなくて、多面的で多様なペルソナを持つものです。矛盾も含めて自分という人間なんです。
そして、自分が他の人と違っているところがあったとして、いや、みんなあると思うのですが、その違いをどういうふうにアジャスト(調整)すれば良いのか、ということを考えて、自分を前向きに捉えてほしいです。
朝野さんの似顔絵 ©Ninomiya Yukiko
――今後やってみたいことはありますか? 展望があれば聞かせてください。
まずは「読み書き障害」を早期発見したり、サポートしたりする体制を作るために何が必要なのか、当事者の一人として研究をしていきたいです。それから作家としては気ままにエッセイなどを発表していけたらいいな、と思っています。
本書では読書好きであることを強調していますが、私もそれ一辺倒な人間ではないんです。パソコンやカメラといったガジェットも好きですし、腕時計や車のマニアでもあります。そういう部分を深堀りしていく視点を提示するようなエッセイが書けたら楽しいでしょうね。
作家デビューすると「いつかは小説も書きますか?」と聞かれることがあるんですが、どうなんでしょう? ある人が、世の中には3種類の人間がいると説いていました。「0から1を作る人間」「1から10を作る人間」「10から100を作る人間」の3種類です。
これに当てはめるとすれば、おそらく私は「1から10を作る人間」「10から100を作る人間」のどちらかだと思います。だから、0から1を生み出す小説は私に向いていない気がするんですが、でもチャンスがあるならばやってみたいですね。
