(※写真はイメージです/PIXTA)

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子どもの就職は、多くの親にとってひとつの節目です。とりわけ大手企業への就職となれば、「これで安心できる」と胸をなで下ろす家庭も少なくありません。しかし、働き方や価値観が多様化するなかで、「安定」の意味そのものが揺らいでいます。外から見える肩書きと、本人が感じる現実とのあいだにギャップが生じるケースも珍しくありません。

「安定してほしい」親の願いと、就職という“ゴール”

神奈川県内に住む会社員の正彦さん(仮名・56歳)は、1年前の出来事を鮮明に覚えています。

「長女が内定をもらったときは、本当にほっとしました。ああ、これでひと安心だなって」

長女の美咲さん(仮名・24歳)は、大学卒業後、誰もが知る大手企業に就職しました。競争倍率の高い企業で、内定を得るまでには相当な努力を重ねてきたといいます。

「祝いの席では笑顔の娘を見られました。“これで安心してもらえるかな”と言っていて…」

その言葉に、正彦さんは胸がいっぱいになったといいます。

就職後、美咲さんは都内で一人暮らしを始めました。初任給は決して低い水準ではないものの、生活に余裕があるわけではありませんでした。

国税庁『令和6年分 民間給与実態統計調査』によると、20代前半の平均給与は300万円台前半にとどまります。ここから税金や社会保険料が差し引かれると、実際の可処分所得は限られるのが現実です。

「“最初は慣れないだろう”と思っていました。社会人1年目は誰でも大変ですから」

しかし数ヵ月が過ぎても、美咲さんの様子はどこかぎこちないままでした。連絡の頻度は減り、電話をしても「大丈夫だよ」と短く答えるだけ。

「無理しているんじゃないか、とは思っていました。でも本人が言わない以上、踏み込んでいいのか分からなくて」

そんな状態が続いたある日、正彦さんのもとに一本の電話がかかってきました。

「お父さん、ちょっといい?」

電話口の声は、どこか張りつめていました。

「どうした?」

正彦さんがそう返すと、少し間が空きました。そして、美咲さんは静かにこう言いました。

「……もう無理かもしれない」

その一言に、正彦さんは呆然としたといいます。

「もう無理かもしれない」…電話越しの一言が意味するもの

話を聞くと、美咲さんは入社後すぐに配属された部署で、長時間労働が続いていたといいます。業務量が多く、帰宅は連日終電近く。休日も仕事の連絡が入り、心身ともに余裕を失っていました。

「最初は“慣れれば大丈夫”って思ってた。でも、だんだん眠れなくなってきて…」

食事も不規則になり、体重は数ヵ月で大きく減少。通院を勧められても、「大げさにしたくない」と受診を避けていたといいます。

厚生労働省『令和6年 労働安全衛生調査(実態調査)』によると、仕事に強い不安やストレスを感じている労働者の割合は依然として高く、特に若年層での精神的負担が課題とされています。

「会社を辞めたいってことか?」

正彦さんがそう尋ねると、電話の向こうで小さく「うん」と返事がありました。

「でも、せっかく入った会社だし、みんな頑張ってるし…辞めるのは甘えなのかなって」

その言葉を聞いたとき、正彦さんは、1年前の祝いの席での娘の笑顔を思い出したといいます。

「“安心してもらえるかな”って、あのとき言っていたんですよね。本当は、自分が安心したかったんじゃないかって」

親を安心させるために選んだ進路。その結果追い詰められてしまった現実に、正彦さんは言葉を失いました。

「辞めてもいい。まずは体を大事にしなさい」

そう伝えると、電話の向こうで、美咲さんはしばらく黙っていました。

「……そう言ってもらえて、少し楽になった」

数日後、美咲さんは会社に休職を申し出ました。すぐに退職という判断ではなく、まずは回復を優先する選択でした。

「最初は“せっかくの大手なのに”という気持ちもありました。でも、それよりも娘が元気でいることのほうが大事だと、今ははっきり思えます」

就職はゴールではなく、あくまで通過点にすぎません。肩書きや企業規模だけでは測れない現実が、そこにはあります。

「親としては、つい“安定してほしい”と思ってしまいます。でも、それが子どもにとっての正解とは限らないんですよね」

電話越しの一言が突きつけたのは、「安心」の形そのものを問い直す必要でした。働き方が多様化するいま、家族のあり方もまた、変化を求められているのかもしれません。