(撮影:岡本隆史)

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演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第50回は歌舞伎役者の中村梅玉さん。1992年に四代目中村梅玉を襲名。30歳の時に結婚、娘も産まれましたが、男の子が生まれなかったので養子を迎えることになったそうで――。(撮影:岡本隆史)

【写真】親子で演じた歌舞伎座での初舞台「蜘蛛の拍子舞」

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<前編よりつづく>

「あんたは幸せだよ」

第2の転機は成駒屋にとって大事な名跡、福助(八代目)を襲名したことだという。1967年、梅玉さんは21歳だった。

――『妹背山婦女庭訓』「吉野川」の久我之助と『絵本太功記』「太十」の十次郎で襲名しましたけど、これは梅幸(七代目菊五郎の父)のおじさんに本当に丁寧に教えていただきました。

梅幸のおじさんにはその後、自分のレパートリーになる役どころの基本をすべて教えていただきましたから、僕の最初の先生は梅幸おじさんなんですよ。

父の教え方は具体的じゃなくて、気持ちの問題とか、役の性根とかなんですね。でも『勧進帳』の義経だけは、父が丁寧に教えてくれました。

これは音羽屋型と成駒屋型とで多少の違いがありましてね。あちらの義経はどちらかというとお能の子方(こかた)の雰囲気でおっとりとなさるんですが、うちのほうは大人の御大将という格を出さなければいけない、という義経なんです。これは教えてもらってよかったなと思いますね。最近もずっと持ち役になっていますから。

歌舞伎役者のイメージをぐんと引き上げたのが、明治天皇の天覧『勧進帳』なんですが、その時の配役が、九代目團十郎の弁慶、初代左團次の富樫、五代目歌右衛門の義経でした。ですから義経は成駒屋の家の芸だし、自分のライフワークだと思って大切にしているのです。

いろいろな方の弁慶で義経をつとめました。十二代目團十郎さんの弁慶と七代目菊五郎さんの富樫のコンビの時もつとめましたが、2025年の八代目菊五郎襲名で、当代の團十郎、菊五郎の『勧進帳』でもつとめたことは嬉しかったです。

何ごとにもおっとりとした梅玉さんが演技に開眼するのは、『頼朝の死』や「御浜御殿綱豊卿(『元禄忠臣蔵』)」など、一連の真山青果作品ではなかったでしょうか。

――そうですね。最初の青果作品が『頼朝の死』で、28歳の時でした。この時の演出は巌谷槇一さんで、その何年か後に『将軍江戸を去る』。

これは真山美保先生が演出でした。この時は徳川慶喜でも山岡鉄太郎でもなくて高橋伊勢守でしたけど、美保先生に新歌舞伎のテクニックを徹底的に教えていただきました。

「歌舞伎だからセリフを歌うところは歌わなければいけないんだけれども、あなたが市川壽海さんみたいな名調子なら、それで通るのでしょうけど、まだそこまでは行ってないから、もっとその役の性格をはっきりと出すようにしたほうがいいんじゃないの」っていうことで、何日も八王子の新制作座まで通ってお稽古していただいたのです。

ですから僕はこれが第3の転機だと思いますね。その頃、真山青果賞というのがあって、その時奨励賞をいただいて、のちに「綱豊卿」で大賞もいただきました。この時は「あんたは幸せだよ」と父がとても喜んでくれましたので、よかったなと思いますね。


筆者の関容子さん(右)と

父はすごい役者だった

そして梅玉襲名は1992年。『祇園祭礼信仰記』「金閣寺」の此下東吉と、『伊勢音頭恋寝刃』の福岡貢で四代目中村梅玉を襲名する。

――襲名の時は、父のおかげで本当にすごい皆さまにつきあっていただきました。『伊勢音頭』にしても、私の貢で父が仲居の万野、お紺が梅幸のおじさん、三枚目のお鹿が天王寺屋(中村富十郎)の兄さん、料理人喜助が播磨屋(中村吉右衛門)さんでしたからね。

父の万野は、ただの意地悪な女じゃあなくて、貢にちょっと惚れてるような不思議な色気が漂ってとてもよかったし、梅幸おじさんのお紺がとても素晴らしく、父もつくづく「誠三さん(梅幸)、いいねぇ」と言ってました。

襲名で忘れられないのは、大阪の中座で『良弁杉由来(ろうべんすぎのゆらい)』を上演した時、父が汚れ役の渚の方に出てくれて、僕のお役は赤ん坊の頃、鷲にさらわれて良弁杉に置かれていた良弁僧正なのですが、これが何のしどころもない役で。

父はずっと息子を探し求めていて、やっと巡り会って涙ながらに「ありがとうございました、ありがとうございました」っていうところを熱演してましたら、その頃、薬師寺の管長だった高田好胤先生が客席から「こちらこそありがとう!」って声を掛けてくださったんです。

あとで好胤先生から「あんたは幸せだよ。あんないい『二月堂』の渚の方は初めて観たよ」って。たしかに父はすごい役者だったと思いますね。

ところで梅玉夫人の有紀子さんは、白樺派の作家・武者小路実篤のお孫さん。「仲よきことは美しき哉」の色紙でも有名な祖父の願いのゆえか、至って円満な御夫婦ですね。

――家内は元バレリーナでして、『白鳥の湖』なんかも踊っていたらしいです。僕は観てないけど。歌舞伎が好きで、演劇評論家の利倉(としくら)幸一さんのご紹介で父の楽屋へ来るようになったんですよ。

5、6年もの間、毎月のように楽屋へ来てました。そのうちに父が「長男のお嫁さんに」って。「大事にしますよ」と言ったらしいです。

それで僕が30の時、結婚しました。十二代目團十郎さんもそのあくる月に結婚して。彼とは生まれた年も結婚した年も同じで、お互いの娘と息子も同い年なんですよ。

娘の名前はなぎさで、父には「なーちゃん」と呼ばれてずいぶん可愛がられてました。家内への「大事にしますよ」は、新居の壁紙――キッチンのド派手な黄色の花柄、洗面所のパンダ尽くしや、赤い花模様の派手で着られないような着物をたくさんとか(笑)。それが父の愛情表現でした。

男の子が生まれなかったので、今の莟玉(かんぎょく)を養子にしたのが2019年です。彼は一般家庭の子ですが、母親が大の歌舞伎好きで、小さい頃から劇場によく来ていたようです。6歳の時に新橋演舞場のロビーで「切られ与三郎」の真似をしてたら舞踊家の花柳福邑さんに声を掛けられて、入門して。

その花柳のお師匠さんが当時の歌舞伎座支配人・大沼信之さんと相談して、僕のところに連れて来られたのです。

そのうち飽きるだろうと思ってましたが、もう舞台に出るのが嬉しくて嬉しくて仕方がない感じで。ほかの俳優さん方からも可愛がられてお役をいただけたりするので、正式に養子縁組をして、梅丸改め莟玉に。この名前は家内が考えたのですが、父の若い頃の試演会が「莟会」でしたから。そこから取って。

これからなさってみたいことは?

――岡本綺堂の『番町皿屋敷』の青山播磨を、莟玉の腰元お菊でいつか演じたいと思っているんです。

ああ、きっと素敵な舞台になりますね。