大谷翔平の二刀流はなぜ成功したのか?栗山英樹に学ぶリーダーシップの本質! ゴジキ氏の新刊『マネジメント術で読むプロ野球監督論』が解き明かす、名将たちの勝負哲学
ベストセラー『データで読む 甲子園の怪物たち』で緻密な分析力を見せつけた野球著作家・ゴジキ氏による最新刊、『マネジメント術で読むプロ野球監督論』が3月18日に発売!
「強いチームを作るための普遍的な方法は存在するのか――。」
組織を率いるリーダー、あるいは結果を求められるビジネスパーソンなら、誰もが一度は抱く問いではないでしょうか。野球界の歴史を紐解き、その答えのヒントを与えてくれる一冊が登場しました。
発売前から重版が決まり、発売後わずか1週間で3刷が決定。予約段階から大きな注目を集めている本書。ラブすぽでは、その中から名将たちの監督論を数回に分けて特別公開します!
今回は、二刀流・大谷翔平選手を見出し、前例なき挑戦を成功へと導いた栗山英樹氏。その「知のマネジメント」の真髄に迫る一節をご紹介します。
信頼の采配者・栗山英樹 ――二刀流の確立から侍ジャパン世界一へ
セオリーを疑い、チームの形を編み直す。栗山英樹は〝外の視点〞で野球を観察してきた思考の人だった。数字を基盤にしながら、判断の軸を「人」に置く。その采配は、データと感情、論理と信頼の間を往復する知的作業である。二刀流という前例なき挑戦も、偶然ではなく仕組みを磨き上げた結果だった。対話によって役割を明確にし、信頼性によって組織を束ねる。勝敗の裏側で、思考と実践のリズムがどのように働いていたのか――本章では、その知のマネジメントを読み解く。
「外野の視点」でチームを再編集
12年の北海道日本ハムは、前年オフに大黒柱のダルビッシュ有がMLBへ移籍し、絶対的エースが空洞のまま開幕を迎えた。戦力ダウンは不可避と見られていた。だが、就任1年目の栗山英樹は、その常識をあっさりと覆してみせる。チーム防御率2.89、チーム打率.256と派手さこそないが、破綻のない野球でリーグを制覇した。この成果の背景には、「外の視点」と「人を信じて動かす力」が融合した、栗山独自の野球観があった。
よく知られるように、栗山は現役引退後に長らく解説者・評論家として野球を〝外から〞観察してきた人物である。就任後もセオリーに縛られないマネジメントを持ち味とし、バント偏重、「送り」の美学、保守的な打順運用に対しても疑問を呈していた。
改革の姿勢は、キャンプやオープン戦の段階からはっきりしていた。例えば、浅いイニングではなるべくバントを使わずヒットエンドランをかける方針が見られた。また、当時12球団トップクラスの中堅手だった糸井嘉男を右翼へコンバートしたり、2番打者に稲葉篤紀や小谷野栄一をテスト起用するなど、既存の型を崩す試みが多かった。開幕後も三振ゲッツーを恐れず走らせるシーンが散見され、走塁で相手守備に圧をかけて主導権を握る攻撃的な姿勢は一貫していた。
栗山は前任監督たちが築いた伝統を壊したというよりも、〝外の目〞で現場を再編集したといえる。かつて解説席から見てきた「こうすればもっと良くなる」という仮説を、実際のチームづくり、采配に落とし込んでいったのである。
栗山のマネジメントの軸は、対話と信頼に基づく〝役割の腹落ち〞だ。選手に「どこで何を遂行するのか」を明確に伝え、我慢と抜擢の線引きをぶらさない。2番に小技と進塁の機能を置きつつも、浅いイニングは〝送るより攻める〞(ヒットエンドランや走塁で畳みかける)ことを基本とした。「柔軟さ」「攻撃性」「常識に縛られない配置」への意識が外からも明らかに読み取れるほど、方針が一貫していた。
象徴的なのが、主軸の中田翔の扱いである。開幕から24打席連続無安打という試練を背負いながら、全試合フル出場させた。結果的にリーグ2位タイの24本塁打、リーグ3位の77打点。先制、同点、勝ち越し、逆転の殊勲安打30本、勝利打点17はリーグ最多を記録。打率の見栄えにとらわれず、勝敗を動かす局面で一打を出す中田の〝クラッチ力〞を重視して4番に据え続けた判断が、試合終盤の戦い方に再現性を持たせることになった。キャンプ時点から走塁の圧と中田の一打を〝点を取りにいく合図〞としていたが、シーズンでもそれが明瞭に機能した。「数字は人を測るためではなく、人を育てるためにある」という言葉のように、初年度のマネジメントからその思想は表れていた。栗山はその経歴からも「面白い野球」「走らせる勇気」「柔軟な起用」などとそのベンチワークを評されたが、決して偶然のひらめきではなく、人を起点にした準備を積むことで機能した戦術である。
中田の他に、野手陣の軸は稲葉と糸井。これに、前述した2番のバリエーション豊かな起用法やヒットエンドラン、必要な場面だけを狙って走る機動力を重ねることで、派手さよりも確度の高い1点を積み上げる得点パターンを貫いた。また糸井を右翼に回して中堅手に陽岱鋼(ようだいかん)を置いた外野陣も、守備範囲と肩力が最大化され、投手中心の勝ち方に合致した。
その投手陣は、この年MVPの吉川を軸に武田勝、ブライアン・ウルフが二桁勝利で続き、八木智哉や斎藤佑樹、多田野数人らが谷間を粘り強く埋めた。前年1勝以下だった投手の合計勝利が29に達したのは、個々の成長と役割の最適化が同時進行したことの証左である。栗山は「6回まで試合をつくる」ことを評価軸に据え、ゲームの管理を単純化。先発が3巡目に入る境目を意識しながら、終盤の〝理想スコア〞から逆算して継投のトリガーを設定した。
リリーフは宮西尚生、増井浩俊、武田久の3本柱がいずれも防御率2点台の安定感を示し、試合終盤の勝ちパターンを確立した。先発が6回で降板しても勝ち筋が立つ構造を整えた半面、この3人と他の救援の力量差が課題であり、連戦や延長戦ではリスク管理が問われた。試合終盤の投手運用の精度こそがチームの品質を左右するという認識は、指揮官にも周囲にも共有されていた。
CSでは、吉川、武田勝、ウルフが先発でしっかり試合をつくり、ソフトバンクにストレート勝ち。シーズン全体でもチーム打率、防御率はいずれもリーグ2位と突出してはいないが、安定して勝ち切る型があることで、短期決戦でも迷いがなかった。
ただ日本シリーズではエースの吉川が攻略され、軸である稲葉と糸井は徹底的に抑えられるなど原巨人の総合力に圧倒されて敗退。リリーフ陣の層の薄さ、継投策の不慣れさなど実力差がはっきりわかる結果に終わった。
大谷翔平の二刀流を機能させるための3年間
12年秋、リーグ優勝の余韻も冷めやらぬ中で、日本ハムは前例のない決断を下した。当時高校生最速を記録した投打二刀流、花巻東高校の大谷翔平をドラフト1位で強行指名。本人はメジャー挑戦を表明しており、指名は〝空振り覚悟〞と見られていた。
大谷を〝日本に引き止める〞のではなく、二刀流という新しい可能性を日本で形にする――。この瞬間から、栗山と大谷翔平の二人三脚の物語が始まった。
13年、日本ハムは最下位に沈んだ。しかし、栗山はそれを「再構築への助走」と位置づけた。チームのテーマはただ一つ、大谷を二刀流で育て切ること。現代のプロ野球で本格的な二刀流育成の前例はなかった。そこで球団と連携し、まずは二刀流を〝制度〞として成立させる運用を準備した。さらに、遊撃手として練習させるなど、選手としての幅を持たせた育成もあった。これは、栗山自身が遊撃手のキャリアを積んで外野手になったことで選手としての幅が広がった経験もあったのだろう。
大谷の登板間隔は週1回を基本にし、疲労や感覚を本人と共有しながら投打を交互に出場させる。この年の成績は、投手として13登板3勝0敗、防御率4.23。打者として77試合、打率.238、3本塁打。数字だけ見ればパッとしないが、「投打両方を続けさせる」こと自体が最大の成果だった。
このシーズン、栗山は勝敗よりも経験を優先する采配を貫いた。ブルペンの勝ちパターン(宮西、増井、武田久)は維持しつつ、若手には思い切って失敗させる。その中で、将来的な勝ち筋の型を探した。大谷の二刀流は、チームの未来とも不可分の〝実験〞だった。最下位に沈んだ一年は、前例のない育成を、組織として支えるための耐性を身につける時間だったのである。
そして翌年、二刀流は〝戦力〞へと変わる。大谷は投手として11勝4敗、防御率2.61、179奪三振。打者としては打率.274、10本塁打、31打点。「10勝・10本塁打」の同時達成はNPB史上初であり、オールスターでは162km/hという日本最速タイの投球で球界を震撼させた。
起用法も入念に練られていた。登板日はDHを解除し、自ら打席に立つ。非登板日はDHまたは代打として出場。疲労と回復のサイクルを本人と共有し、「投=軸、打=起爆剤」という役割分担に。単なる夢としての二刀流ではなく、チームを勝たせる手段としても機能する二刀流であった。
この年から大谷の二刀流はチームの象徴になった。そして、「不可能を制度として成立させた」ことで球団と監督、ファンの信頼関係が確立された年でもあった。
日本ハムはこの年、CSではオリックスを破り、ファイナルステージでソフトバンクに敗れるも、Aクラス復帰を果たした。チーム全体を見ると中田が100打点で打点王、西川遥輝が43盗塁で盗塁王を獲得。出塁と長打、スピードを組み合わせた「攻撃のパッケージ」が完成した。また、7回以降は宮西から増井への継投を固定し、谷元圭介やクロッタなどリリーフ陣の枚数も増えた。序盤の機動力で先制し終盤は中田の一撃で仕留めるゲームプランが構築され、チームが再び上昇に転じたシーズンだった。
このシーズンから白井一幸氏が「内野守備走塁コーチ兼作戦担当」として一軍に復帰し、連携のハブを担ったことも見逃せない。白井は「怒らず励ます」「教えず考えさせる」を指導モットーとし、選手との信頼を構築しつつチームビルディングに携わった。また、指揮系統としても「作戦担当」が置かれるようになった。
続く15年はシーズン2位。優勝には届かなかったが、大谷は投手として15勝5敗、防御率2.24、196奪三振で最優秀防御率・最多勝・最高勝率の三冠を達成。完全にエースへと昇華した。一方、登板数の増加に伴い打者としての出場は限定的となり、打率.202、5本塁打にとどまった。投手としての支配力を最大化し、打者としての出場は〝投の準備〞を前提に最少化。「勝つための現実的手段」へと二刀流を進化させるプロセスだったといえる。
裏ローテにはメンドーサら〝イニングイーター〞を配置。5完投3完封を挙げた大谷が先発する日はリリーフ陣の負担を軽減する計算が働いていた。勝つ日と休む日を明確に分け、長期戦での勝率を最大化する。それは、栗山采配の進化形であり、組織としての「勝つ仕組み」に二刀流を組み込んだ結果であった。
この年は大谷が打者として出られなくとも打線は安定していた。近藤健介が打率.326でリーグ3位、レアードが34本塁打、97打点。30本、102打点を記録した中田と並ぶクリーンアップを形成した。「出塁の近藤」「推進の西川」「仕留める中田とレアード」。そこに「抑える大谷」。栗山ファイターズの〝勝ち筋の構造〞はここで完成を見た。このシーズンは、翌年の逆転優勝への布石にもなる。
13~15年の栗山を貫くキーワードは「信頼」と「納得」である。栗山は選手をほとんど叱らず、代わりに対話を重ね、選手自身に考えさせる。監督が決めるのではなく、選手が納得して選ぶ。その結果として、チームが機能していった。
当然、大谷の起用法も監督の独断ではなかった。本人やコーチ陣などで毎週ミーティングを行い、栗山は最終決定者でありながら、実際の運用は〝現場全体で支える〞体制を築いた。「個を尊重する構造をつくること」が、彼のマネジメントである。打順・継投・走塁といったすべての意思決定に共通するのは、「データで理屈をつくり、人で上書きする」という思考だ。
【出典】『マネジメント術で読むプロ野球監督論』著:ゴジキ
「二刀流」という、かつての球界では異端とされた挑戦を、単なる夢物語ではなく、勝つための「制度」として組織に組み込んだ手腕。そして、不調の中田翔選手を信じて使い続け、勝負どころの「型」を構築した忍耐力。栗山氏のマネジメント手腕はプロジェクトを推進するすべてのリーダーにとって、大きな指針となるはずです。
発売前から大きな反響を呼んでいる本作。その全貌は、ぜひお手にとってお確かめください。
