なぜ信長の安土城は「幻の城」と呼ばれるのか【新・戦国史】

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信長の革新的な城づくりの集大成と位置づけられ、日本の城の在り方を大きく変えた存在として、これまで数多くの研究者たちを魅了してきた「安土城」。その調査研究から見えてきた城づくりの核心に迫る。

科学×歴史で日本史上のターニングポイントを鮮やかに描き、大きな反響を呼んだNHKスペシャル「戦国サムライの城」の書籍化作品『新・戦国史 城から迫る乱世の終焉、泰平のはじまり』の第2章「令和の大調査で迫る安土城」より、その一部を特別公開。

書影

記録に描かれた安土築城

 信長が築いた数ある城の中で、最も研究者たちを魅了してやまないのが、信長が最後に築いた、安土城だ。滋賀県近江八幡市、琵琶湖の東岸に位置する標高一九九メートルの安土山に「平山城(ひらやまじろ)」として築かれた。平山城とは、周りを平地に囲まれた丘や小高い山に築かれた城のことを指し、軍事的な役割と政治を執り行う機能をより一体化し、領国の経営に重点を置いたつくりになっている。現在は安土山全体を木々が覆い、石垣や一部の建築物を除いて、その姿はほとんど失われてしまっているが、残された石垣が在りし日の安土城の威容を今に伝えている。

 二〇一九年(令和元)には、築城開始された一五七六年(天正四)からちょうど四五〇年の節目を迎える二〇二六年(令和八)に向けて、滋賀県を中心とする復元プロジェクトが立ち上げられるなど、改めてその存在に様々な角度から注目されている。

 なぜ“幻の城”安土城は「幻の城」と呼ばれ、今もなお日本中の人々の注目を集めるのか。その理由の一つが、史料に事細かに記録された安土城の驚くべき姿にある。まずはルイス・フロイスの「日本史」に記された内容を一部ではあるが見てみよう。

彼は都から十四里の近江の国の安土山(あづちやま)という山に、その時代までに日本で建てられたもののなかでもっとも壮麗だといわれる七層の城と宮殿を建築した。すべては截断せぬ石から成り、非常に高く厚い壁の上に建ち、なかにはそのもっとも高い建物へ運び上げるのに四、五千人を必要とする石も数個あり、特別の一つの石は六、七千人が引いた。そして人々が確言したところによれば、坂を少し下へ滑り出た時に、その下で百五十人以上が下敷きとなり、ただちに圧し潰つぶされ、砕かれてしまったということであった。壁と塀は驚くほど高く、それに適した技巧で造られており、截断せぬ石だけからできていても、切石と漆喰でできた我らヨーロッパの石造建築を眺めるのとほとんどなんら異ならないほど堅固に、そして豪華にできている。

 ここには築城にあたって用いられた巨石に関する一場面が描かれている。従事した人数を鵜呑みにすることはできないが、数千規模の人数をもって安土山に次々と石が運び込まれ、落石事故による多大な犠牲を払いながらも、ヨーロッパの建造物に劣らない城が築かれたという。

 一方で、「信長公記」にどのような記述がなされているかを見てみると、フロイスの記録と重なるように、人足一万人を昼夜三日間動員して「蛇石(じゃいし)」という巨石を山へ引き上げたことや、天主が地下一階、地上六階の七階建てになっており、それぞれの部屋の広さや、襖(ふすま)や壁に描かれた具体的な絵の内容まで、じつに詳細に記されている。

「信長公記」を記した太田牛一本人は安土城の天主内部を見たことはなかったようだが、実際に天主を目にした京都奉行、村井貞勝の記録をもとにして記述したとされ、信用に足る貴重な描写と評価されている。

 いずれの記録においても、それ以外の城をここまで丁寧に書き残していないことから、安土城がいかに他を圧倒する城だったかを想像することができる。

安土城はどのような姿をしていたのか

 同時代史料に詳細な記録が残されていたことで、それらを手がかりにして後世の研究者たちが天主を復元することが可能になり、いまだ確定的ではないものの、多様な復元案が提示されてきた。代表的なものだけでも、一八五八年(安政五)に名古屋城の研究で知られる奥村徳義(のりよし)が製作した復元案に端を発し、一九三〇年(昭和五)の土屋純一案や一九三六年(昭和一一)の古川重春案と続く。

 大きな画期となったのは、一九七六年(昭和五一)、名古屋工業大学教授だった内藤昌(あきら)が発表した復元案だ。静嘉堂文庫が所蔵する「天守指図」という史料を参考にしたもので、最大の特徴として、天主の内部に地階から三階までの吹き抜けが設けられていた。一方で、一九七七年(昭和五二)、東京大学工学部建築学科の助手だった宮上茂隆が、内藤昌の復元案に疑問を呈する形で独自の復元案を発表し、論争を巻き起こすことにもなった。

 その後も、二〇〇五年(平成一七)に広島大学大学院生だった佐藤大規(現・愛媛大学准教授)が独自の案を発表するなど、在野の研究者も含めれば数知れぬ復元案が考えられ、現在に至っている。

 いずれの復元案も、それが案の一つに留まらざるをえないのは、頼りにできる根拠が文字で記録された文献史料にほとんど限られることにある。安土城は、一五七六年(天正四)に築城を開始。一五七九年(天正七)に天主、一五八一年(天正九)に城全体が完成したのち、一五八二年(天正一〇)に天主を中心とする主郭部分が焼失している。その後、一六一七年(元和三)、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠が、この地に信長が生前に建立した縈見(そうけん)寺に安土山の支配権を認めて以来、現代まで城跡だけが守り続けられてきた。

 二〇二〇年(令和二)、滋賀県が実施した航空レーザー測量によって、地面を平らに削ってならした「曲輪(くるわ)」と思われる平坦部が確認され、安土山全体に遺構が広がっている可能性が示されたが、その八割は調査が及んでいないとされ、安土城の全体像を知る手がかりは限定的なものとなっている。

安土城の天主跡に残る礎石

 もっとも、安土城の発掘調査の歴史は古く、時間をかけて得られた成果には目を見張るものがある。一九二六年(大正一五)、史跡に指定された安土城跡では、一九四〇年(昭和一六)から天主と本丸跡の発掘調査を実施。一面瓦礫の山と化していた中から、土砂を取り除き、天主台や建物の礎石(そせき)を発見した。その後、戦中戦後の間はしばらく手がつけられない状態が続いたが、一九五二年(昭和二七)に特別史跡に指定。一九六〇年(昭和三五)からは主郭部の石垣の修理が行われ、徐々に整備が進められていった。

 そして、一九八九年(平成元)から二〇年かけて行われた「特別史跡安土城跡調査整備事業」では、安土城の実態に迫る新発見が次々と明らかになっていく。その最たるものが、「伝大手道(でんおおてみち)」と言われる安土山の南の麓から真っ直ぐに伸びる道の発見である。平成の調査が行われるまでは、曲がりくねりながら麓から山頂に向かって続く幅三メートルほどの小さな道のみが確認されていた。しかし、この道を掘り起こし調査した結果、その下から姿を現したのは、幅が約八メートル、直線状に約一八〇メートル続く巨大な道、「伝大手道」だった。

安土城跡の伝大手道

百々橋口道

 安土城にはその他にも山頂に向かう「百々橋口道(どどばしぐちみち)」という道は存在するのだが、この伝大手道が発見されたことで、一つの可能性として、百々橋口道が一般的に登城するために使用される道であり、伝大手道は特別な賓客が訪れた際に使用するための儀礼的性格を持った道だったのではないかと考えられるようになった。

 このように昭和から平成にかけて発掘調査が続けられてきた安土城跡は、考古学上の成果の積み重ねにより、文献史料のみではわからなかった実態が着実に明らかにされていった。そして、平成の調査整備事業から一五年経った、二〇二三年(令和五)度、再び、新たな整備事業が二〇年の計画で開始することとなったのである。

この続きは『新・戦国史』でお楽しみください。本書は以下の構成で、信長から家康へと続く城郭革命の実像を描き、「近世城郭誕生の秘密」に迫ります。

第1章 信長の城郭革命
第2章 令和の大調査で迫る安土城
第3章 消えた安土山図屛風と大航海時代
第4章 秀吉が残した慶長の築城ラッシュ
第5章 家康の国づくりと名古屋城
第6章 巨大城郭がもたらした技術・社会変化
第7章 「泰平の世」はいかに到来したか

NHKスペシャル取材班
最新の発掘調査と科学的分析から近世城郭の誕生に迫った、NHKスペシャル「戦国サムライの城」の制作チーム。同番組は、信長から家康へと続く城郭革命の実像を描き、大きな反響を呼んだ。
※刊行時の情報です