沢知恵さんが語る「詩人 永瀬清子とハンセン病」入所者たちがいのちをかけた詩に真剣に向き合った永瀬清子「選評のことば」に垣間見える思い(第2回/全3回)
岡山を拠点に活動するシンガーソングライターの沢知恵さんが、岡山市北区表町の「詩人 永瀬清子とハンセン病文学の読書室」で講演しました。
【写真を見る】沢知恵さんが語る「詩人 永瀬清子とハンセン病」入所者たちがいのちをかけた詩に真剣に向き合った永瀬清子「選評のことば」に垣間見える思い(第2回/全3回)
講演の内容は、全3回にまとめています。今回は、第2回です。
永瀬清子とハンセン病療養所
(沢知恵さん)
「いよいよ永瀬清子です。
永瀬清子は1906年、岡山県の現在は赤磐市熊山に生まれました。
ハンセン病の最初の法律『癩予防ニ関スル件』が制定される1907年の前の年にあたります。
2歳の時、お父様のお仕事で石川県の金沢に移りました。そこで10代半ばまでを過ごします。
名古屋、結婚してからは大阪、東京と移り住み、1945年の初めに岡山に来ました。
3月の東京大空襲はまぬがれたものの、6月の岡山大空襲は経験しています。
その後、岡山市内から赤磐へと移り、農業と子育てをしながら詩を書きました。
永瀬清子の名前が岡山県瀬戸内市にあるハンセン病療養所、長島愛生園の月刊機関誌『愛生』に、詩の選者として最初に登場するのは、1949年8月号です。
入所者たちが書いた詩を選んで、評を書くという仕事です。
永瀬清子は43歳。その年の3月に、第1回岡山県文化賞を受賞しています。
永瀬清子は詩人の藤本浩一らとともに詩の選を行っていましたが、バトンタッチをするようにして、やがてほとんどひとりでやるようになりました。
1964年まで約15年間続けました。
同人誌『黄薔薇』が創刊された1952年からは、長島愛生園の隣にある邑久光明園の機関誌『楓』の詩の選も行いました。
永瀬清子は、生涯に18回、長島に通った記録があります。橋のかかっていない時代です。
1988年に邑久長島大橋が開通した年に訪れたのが最後となりました。
永瀬清子がハンセン病療養所に深くかかわったことは、最近まであまり知られていなかったように思います。自筆年譜にも出てきません。
これほどまでに深くかかわったのに、なぜそのことを年譜に書かなかったか、不思議です」
長島に通い始めた頃の作品「貴方がたの島へ」
(沢知恵さん)
「2023年に出版された岩波文庫『永瀬清子詩集』は、谷川俊太郎さんによる選ですけれども、これから読む『貴方がたの島へ』という詩は、そこには入っていません。
永瀬清子が長島にかかわり始めたころに書いた詩です。
機関誌『愛生』1951年10月号に掲載されました。
貴方がたの島へ
貴方がたの島へ
私は何かを受けとりにゆくのです
いつも人々からの愛を受けとつて
精神(こころ)は着ぶくれてゐる貴方がたから
私は何かをうばひにゆくのです
さあ私に何かを下さい、病める人々よ。
私はいたゞきに来ました。
この島へ来る人々は
いつも愛の言葉を置いてゆく。
私の愛はごくお粗末、
それでゐて私は貪欲に
貴方がたからいたゞきたいのです。
なぜなら私は施こしを恵むだけではあき足りない。私に喜びを下さい。
血泥の病気をいたましく思つたり、
呻きや涙をあはれんだりするだけではまだ足りない。
私は同情しにゆくだけではいやです。
私に見せて下さい、立派なお友達であるあかしを。
貴方がたは何を私に贈(く)れやうと心配なさる。
肉体の病気の中にくじけぬ人間、
ありとあらゆる苦しみの涙と膿汁の中の助け合ひ、
昼夜なき痛みや不自由の中の雄々しいいのち
さうしたものを見出して私はふるひ立つのです。
願くば私を喜ばせ勇気を下さい。
それを下さつてこそ貴方がたは私の友達。
くじけずひるまず暮す人々を見ることこそ私の喜び。
さあ私に沢山のものを贈つて下さい。
いかがでしょう。激しいと思いませんか。
『何かを受けとりにゆく』まではいいとして、『何かをうばひにゆく』って、永瀬さんはいったい何を奪いに行ったんでしょうか。
私もハンセン病療養所に長く通って、皆さんからたくさんのものを受け取ってきました。
いや、受け取ったというより、ときに奪ってきたのかもしれない。そうするつもりはなくとも。
この詩を読みながら、そんなことを思いました。
2014年、私は長く暮らした千葉県から岡山県に引っ越しました。
幼い頃からかかわっている大島青松園の近くに行きたいという思いからです。
高齢化で人が減っていく。その終わりゆく大島青松園の皆さんの近くに行きたいと思い、思い切っての引っ越しでした。
岡山に来てからは、長島愛生園と邑久光明園にも通うようになりました」
入所者たちがいのちをかけた詩に真剣に向き合った永瀬清子
(沢知恵さん)
「私は永瀬清子が機関誌『愛生』と『楓』に書いた詩の選評のすべてに目を通す機会を与えられました。
圧倒されました。永瀬清子は半端ないです。
膨大な時間とエネルギーを要する仕事をなさったことがわかります。
ハンセン病療養所の人たちは、一篇一篇、いのちをかけて詩を書きました。
それにひとつひとつ真正面からこたえ、あなたのこの言葉をこうするといいよ、ここはよかったけど、ここはもっとこうして、と熱く熱く書いています。
永瀬清子がハンセン病療養所にかかわった1950年代から60年代にかけては、療養所の歴史において大きな転換点と言える時期でした。
先ほど申しましたように、特効薬が入ってきて、ハンセン病に治る希望が見出されました。
その希望は療養所を明るく照らしたのです。
にもかかわらず、戦前から続く『癩予防法』は、1953年にほぼそのままのかたちで『らい予防法』に改正されました。
予防法反対と療養所の生活の待遇処遇の改善を求めて、全国の療養所の入所者たちが立ち上がり、政治闘争をくり広げました。
ハンスト、国会前の座り込みなど、不自由な体を張って闘いました。
それと連動するように、文芸、音楽、美術など、療養所での自己表現もますます盛んになっていきました。
毎月発行された全国の療養所の機関誌や文芸誌には、詩や短歌、俳句、随筆、小説など、たくさんの文芸作品が寄せられました。
永瀬清子の詩の選評の中からいくつか紹介をします。
「一般にうまい云い廻しをしやうとせず直截に自分の気持ちをおかきなさい」。(『愛生』1949年12月号)
『のぞみとは』という詩に対して、永瀬清子はこんな風に書いてます。
『のぞみを持つことは、ことにこうした病気におかかりの皆様にとつてはむなしいことかもしれません。しかし人間はやはり一歩一歩望みなしには生きてゆけませんし、またその望みを持つていいのだと思ひます』。
(『楓』1953年4月号)
『病むにしても健康にしても一ぺんしか経験できないこの世のこと、病む人ならでは書けぬするどい、また優しい眼をもつて書いていてください』。
(『愛生』1953年11月)
永瀬清子は、子どもの詩にも選評を書きました。長島愛生園には、愛生学園という小学校、中学校がありました。
小学2年生の男の子が書いた『ばつた』という短い詩があります。
くさの中で
ばつたを みつけた
そのばつたは
小ちやい子どもを
せなかにせおつていた
ぼくはなんだか しらんけど
つかまえて ころした
永瀬清子はそれに対してこう書いています。
『大変正直にかいているのでするどさがあります。正直さが大切です。でもやはりばつたは殺さないでね』。
(『楓』1955年2月号)
「ほかの人には書けないような自分自身で見たり考えたりした事を」
(沢知恵さん)
「子どもの作品全体に対しては、次のように書いています。
『ほかの人には書けないような自分自身で見たり考えたりした事を書く事と皆さん方の年頃では具体的にかくのがいいと思います。具体的と云うのはすぐ目に浮かべてみられるように。と云うことです。すぐ目に浮かべて見られるようにということです。それで花というよりは梅の花。ただ梅の花というよりもどんな梅の花と判る方がいいのです。空想した事についてもそうです。しかし大きくなれば又別の注意がいりますけれど、今はそうした事に気をつけて下さい』。
(『楓』1957年9月号)
またおとなの方に戻ります。
『選評には大変手間どる時と割に早く選のすむ時がありますが、今度の募集では正味二日半くらい、いつもよりはずつと早い方でした』。
(『楓』1956年11月号)
つまり、いつもは何日もかかっていたということなんですね。それを2つの療養所の月刊誌でやっていたのです。すごいことです。
『光明園の方々は作品数も多く何と云つても粒のそろつていることに驚かされます。その他全体としても水準高まり、又ひどく判りにくい一人よがりの詩も少なくなりました』。
(『楓』1956年11月号)
チクリと言っていますね。
つまり、ひどくわかりにくい一人よがりの詩があった、ということが言いたかったんですね。
続いて『失明ということ』という詩についてです。
『Hさんの詩はそれを書くのに身体ごとぶつかつてはいつも倒れています。こちらでもどう手を貸すことも出来ない感じ。でも失明の中から何か一つを見つけて下さい。「歩けない歩けない」「どうしたらいいのだ」という言葉がぶつかつているHさんを表わしています。しかし本当は私を非常に心配させはらはらさせる言葉です。失明でなければ見えぬものがきつとあるにちがいない。それをつかんだ時、それが本当の杖でしよう。この詩ではその杖がまだつかまれていない感じです。詩を離れた評のようでしょうが、やはりそれが詩の評です』。
(『愛生』1960年5月号)
目の見えない人に向かって、よくこんなことを言えたなあ、と思います。あなたは見えないからこそ見えるものがあるはずでしょう、って。
『面白い詩と云うのは何かということを、私なりに又考へてみましたが、次のようにも云えるのではないかと思うのです。一、自分の心にその詩と共感、或は共通の立場を感ずる詩 二、新らしい発見のある詩 三、リズム感覚がある詩』
(『愛生』1960年9月号)
『このたびは作品数が少なかつたので以上順不同に感想をかきました。どうぞ次号は沢山こまるほど書いて下さい』。
(『愛生』1962年1月号)
『詩をかくと云うことは心をかくことであり、それは見る事、考える事によって心を敏感に又ふかくしなければならない仕事です。詩をかくことによって一層よく生きる事を勉強されますように祈ります』。
(『楓』1966年11月号)
『詩を書くには正直が一番かんじんです。書くことでその正直がうまくなります。(中略)下手でもいいからぜひ書きたいことをみんなでうんと書いて下さい』。(『楓』1970年11月号)
まだまだ紹介したいのですが、ほんの一部を聞いていただきました。どうでしょう。詩を書きたくなりませんか」
ハンセン病療養所の人たちの詩と向かい合うことで、励ましながらも自ら励ましてもらったのではないか
(沢知恵さん)
「私は永瀬清子の選評を読んで、私自身が励まされているような、そんな気持ちになりました。
永瀬清子がこうしてハンセン病療養所の詩の選をしたのは、40代から50代にかけて、ちょうどいまの私ぐらいの年齢です。
詩人としては円熟期を迎えながら、プライベートでは色々大変なことが重なったようです。自筆年譜の1956年のところに、こう書いてあります。
『この時から数年はどのように暮らしたかはっきりしない』
そういう時期ってありますよね。私にもありました。しまいには永瀬清子は体調を崩し、血圧が上がってしまいました。
そんな時期に、永瀬はハンセン病療養所の人たちの詩と向かい合うことで、励ましながらも自ら励ましてもらった。そんな気がします。
療養所の人々の日々の孤独や苦悩を自分のものと重ね合わせながら、詩の選を行ったのではないか。そうじゃなかったら、あんな容赦のない批評は書けないと思うんです。
上手に書けましたね、また次も頑張ってください、ではなく、ともに担う覚悟がないとできません。
おひとりおひとりを表現者として受け止め、敬意を表した永瀬清子のその誠実さに、私は心を打たれました。
同時に、それは自分が投げかけた言葉は、きっと自分にも返ってくるということを誰よりもわかっているからできたことだと思います。
人に厳しい人は自分にも厳しい。永瀬清子はそうだったと思います。
選評を読みながら、私は永瀬清子の短章を思い出しました。
短章は、詩と散文の中間のような独自のスタイルで発表したものです。
谷川俊太郎や茨木のり子は、永瀬清子の短章を高く評価しています。
短章には、詩とは何か、よい詩とはどういう詩なのか、詩人とはどうあるべきか、よく生きるとはどういうことか、という永瀬清子の思想があらわれています。
いつか天国で永瀬さんにお会いできたら、おたずねしたいです。
『ハンセン病療養所の人たちの詩の選をすることが永瀬さんに与えた影響は、大きかったことでしょう』と」
▶この記事の続きを読む
