『ウィキッド 永遠の約束』が現代に突きつける政治性 エルファバとグリンダがかけた“魔法”
世代を超えて支持を集めるブロードウェイミュージカルの金字塔を映画化した2部作の完結編、『ウィキッド 永遠の約束』が公開された。グレゴリー・マグワイアによるダークファンタジー小説を基に、舞台版として大ヒットを記録してきた、この題材は、長年にわたりハリウッドでの本格的な映像化が期待されてきた、注目の大型企画だった。
参考:『ウィキッド 永遠の約束』順調なすべり出しが示す「映画ファン」と一般層の意識のギャップ
記憶に新しい前作『ウィキッド ふたりの魔女』(2024年)は、その圧倒的な世界観の構築とシンシア・エリヴォとアリアナ・グランデのパフォーマンスによって世界的なヒットを記録し、アカデミー賞をはじめとする賞レースでも大きく注目された。本作は、そんな熱狂を引き継ぐ後編にあたる一作なのだ。オズの国の歴史の裏側で出会った、緑の肌を持つ魔女エルファバと、社交的で人気者のグリンダ。二人の友情がどういった結末を迎えるかが描かれ、ついに全貌が明らかになったのである。
前作同様、華やかな魔法や感動的な楽曲の波に心を奪われてしまう本作だが、そこで提示されたのは、美しい友情の価値だけではない。ここでは、完結編である『ウィキッド 永遠の約束』の要素を検証し、このエンターテインメント作品の裏では実際に何が描かれていたのか、その正体をあぶり出していきたい。
『ウィキッド ふたりの魔女』の舞台は、まだ“悪い魔女”も“善い魔女”も存在しなかった頃のオズの国。シズ大学で出会った、緑の肌を持ったことで偏見をぶつけられるエルファバと、華やかで野心に溢れるグリンダは、反発し合いながらも、誰よりも深く魂を通じ合わせることとなる。そんな二人の友情が、物語の中核として描かれた。
彼女たちがオズの国の中心たるエメラルド・シティで対面した魔法使いの正体は、動物たちから言葉を奪い、民衆を欺くペテン師に過ぎなかった。この決定的な真実に直面したことで、二人の道は分かれることになる。権力に背き、孤独な闘いを選んで空へと飛び立ったエルファバは、悪い魔女というレッテルを貼られる。一方で既存のシステムのなかに残り、民衆に希望を与える偶像となる道を選んだグリンダは善い魔女へと祭り上げられた。
後編である本作『永遠の約束』では、そんな正反対の道を歩み始めた二人が、いよいよわれわれがよく知る児童文学『オズの魔法使い』や映画『オズの魔法使』(1939年)のヴィジュアルという、よく知られた“正史”、大衆的イメージへと合流していくことになる。エルファバは、魔法使いの弾圧から動物たちの権利を守るべくレジスタンスとしての孤独な戦いを続けている。対するグリンダは、善の象徴としての職務に従事しながらも、親友を悪者に仕立て上げてしまった罪悪感と、嘘の上に成り立つ喝采に、心が揺れ動く。
前作においても、肌の色による差別や個人の心の闇が描かれていたが、完結編となる本作ではそれらがより深まり、物語全体が一段とダークな色彩を帯びている。こうした深刻化するテーマに対し、エンターテインメントとしての華やかさやユーモアを保ちつつ映像化を果たしたジョン・M・チュウの手腕は見事だといえる。『クレイジー・リッチ!』(2018年)や『イン・ザ・ハイツ』(2021年)において、社会的な格差やマイノリティのアイデンティティをポップな語り口で表現してきた彼のバランス感覚が、本作でも活きている。
特筆すべきは、やはりその映像の圧倒的な豪華さだ。ファンタジー世界を説得力を持って構築するには、経済的にも精神的にも莫大なコストが必要となるが、本作はそこから逃げることなく、徹底して映像のリッチさを保ち続けている。独創性や繊細さには欠けるかもしれないが、『オズの魔法使』の世界のイメージを再現するという期待に応えることで、まさにミュージカル版『ウィキッド』の“普及版”と呼ぶにふさわしい、王道的なクオリティを担保したといえよう。
そして何より際立っているのが、あの少女ドロシーの登場シーンである。無垢なヒロインとして深く刷り込まれているはずの彼女が、ここではエルファバの命を脅かす“最強の刺客”として、不気味さを纏いながら画面に映り込むのである。清廉な少女のイメージが戦慄をおぼえるほど深刻な脅威として再出現するという趣向は、『ウィキッド』という作品そのものが、アメリカの神話とすらいえる古典を解体し再構築しようとする野心的な試みであったことを思い出させる。
さて、いよいよ本作の核心であるテーマの言及へと移りたいところだが、その前に、もう一度『オズの魔法使い』という神話の系譜、そして『ウィキッド』の原作小説やミュージカル版が、これまで何を表現し、積み重ねてきたのかを振り返っておく必要があるだろう。
1900年に発表されたライマン・フランク・ボームによる児童文学『オズの魔法使い』は、言うまでもなくアメリカを代表する文学作品だ。決定版といえる映画『オズの魔法使』もまた、アメリカ映画史上の最高傑作の一つと呼ばれ、ドロシーが歩む黄色いレンガの道やエメラルド・シティのイメージは、映画ファンのみならず、いまもなお多くの人々の心に刻まれている。
しかし、この無垢なファンタジーに見える物語には、発表当時から政治的な寓意が含まれているという解釈が一般的になされてきた。オズの国とはすなわちアメリカ合衆国そのものの暗示であり、権力者のペテン的な国家運営、黄色いレンガの道が指し示す金本位制をめぐる混乱、あるいは農民や労働者のメタファーとしてのキャラクターたち。こうした社会批評的な視点こそが、作品の背骨を形成したのではないかと見られている。
『ウィキッド』の原作者グレゴリー・マグワイアは、まさにこの『オズの魔法使い』が持つ政治性を出発点として、物語を再構築したのではないかと考えられる。彼が小説を執筆した当時、そこには湾岸戦争への問題意識が色濃く反映されていたと考えられ、ブロードウェイでミュージカル化された際には、その指摘がイラク戦争へとシフトしていった。
つまり『オズの魔法使』を政治的な作品として読み解くのであるなら、『ウィキッド』というプロジェクトは、形式こそ二次創作ではあるものの、その時代時代が抱える不条理を反映させ続けてきたという意味で、原作が持つ精神性を、じつは正当に継承している作品だったのだといえるのではないか。
では、本作『ウィキッド』が現代に突きつける政治性とは、一体どのようなものなのだろうか。まず第一に挙げられるのは、無理解や無知が引き起こす差別の深刻さである。主人公エルファバの緑の肌、あるいは言葉を奪われていく動物たちや虐げられるマンチキンたちへの蔑視感情は、単なる偏見を超え、やがて排外主義という名の暴力へと変化していく。
完結編である本作では、民衆がいかにして扇動され、その集団的な悪意が具体的な力の行使へとどのように繋がっていくかが描かれる。ここで映し出されていく光景は、もはやファンタジーのなかの出来事ではない。現代社会におけるヘイトスピーチやヘイトクライム、そして、その延長線上にある湾岸戦争やイラク戦争、いまこの瞬間も世界で続いている紛争や戦争を引き起こす、根源的な問題そのものなのである。遠く離れた日本でも、近年とくにそうした社会問題に揺れているところだ。
ここでとくに注目すべきは、作品の根底に流れる社会観における、徹底的なまでの“諦念”である。体制のシステムに乗り、権力の意向を伝えるだけの無力なグリンダが喝采を浴びる一方で、社会の欺瞞を暴こうとするエルファバが絶対的な悪として血祭りにあげられようとする。劇中に登場する、「人は信じたいものを信じる」という言葉が象徴するように、ここでは市民の大半がマダム・モリブル(ミシェル・ヨー)による巧妙なイメージ戦略に軽々と乗せられてしまう、思考停止した存在として描かれているのだ。
通常のエンターテインメントであれば、クライマックスにおいて権力の嘘が白日の下にさらされ、市民が真実に目覚めるというカタルシスが用意されるだろう。しかし本作が選んだのは、あえて市民に真実を知らせないという、異様ともいえる展開であった。もちろん、この展開は『オズの魔法使い』という既存の物語へ繋げるための必然的なプロットだったのかもしれない。しかしそれを差し引いたとしても、一般市民という存在をここまで徹底して信用せず、変革の物語から除外する姿勢は、もはや攻撃的なほどに顕著である。
こうした諦念は社会風刺としての側面を持つ一方で、ある種のエリート主義的な傲慢さをはらんでいるといえるかもしれない。グリンダが既存のシステムを利用し、民衆をコントロールすることで社会を緩やかに進歩させようとする手法は、清濁を併せ呑むリアリズムとして局所的な効果を発揮するかもしれない。しかしその統治は、結果として既得権益の構造を温存させ、抜本的な変革を阻害する危険性もある。
そのような欺瞞に満ちた方法を選ばねば、結局はより大きな悪を勝利させ、世界を修復不能な混沌へと導いてしまう……そんな、民衆の知性に対する作者の諦めこそが、本作の土台にある。だから世界を救うためには、“嘘”という毒を人々に飲ませなければならないというのだ。この救いようのないニヒリズムと苦いリアリズムこそが、華やかなファンタジーを装った本作の中核をなしていることは間違いない。
本来、エルファバのような正義に基づく反体制活動と、システム内で利益を享受しながら進歩を模索するグリンダの姿勢は、並列に置かれるべき要素ではないだろう。しかし、そんなアンバランスな二つの価値観を無理にでも並列させ、互いに「あなたのおかげで、より善い自分になれた」と讃え合わねばならない、ある種不自然ともいえるメッセージ自体が、人々との対話がもはや断絶し、真実が力を失う社会の病理を反映しているともいえるのではないか。
だが一方で、異なる立場にある人々が、それぞれの立場のなかで少しでも“善い存在”を目指そうとする“遅い歩み”もまた、社会全体が最悪を回避し、改善へと向かうためには不可欠だという考えは、理想的ではないにせよ、確かに一考に値する考え方であるのかもしれない。ことに現在では、そう思うようになった人も少なくないのではないか。
アメリカを代表するファンタジーを基に、豪華で華やかな世界を描き出した『ウィキッド』2部作。しかし、その結末を描く本作が発表されたことで、その中心に存在していたのは、世界を善くしたいと願うからこそ、選ばれた個人のささやかな善性と知恵にすがるしかないという、きわめて現実的な“消極論”であったことが、より顕在化することになったといえる。
だが、階層の断絶を超えて、二人の女性が束の間でも心を通わせ、巨大な悪に対して共闘したという作中の事実は、本作にとって小さなものではない。そこで示される共感の可能性こそが、おそろしい混沌に包まれた現代において、実効的な光を放つ唯一の“魔法”であるのかもしれないからである。
(文=小野寺系(k.onodera))
